風洞記

3月2日

#チャーリー・パーカー #マリア・カラス #フランク・ザッパ #マイルス・デイヴィス #ジョン・コルトレーン #プレストン・スタージェス

チャーリー・パーカーのサヴォイ、ダイヤル、スタジオ録音のCD一枚を聞く。菊池成孔のラジオ、『粋な夜電波』のタイトル曲が、別テイクも含めて、数回流れてくる。

マリア・カラスがグルックの『トーリードのイフィジェニー』のイフィジェニーを演じたものを聞く。最初グリーグが作曲したものだとばかり思っていたら、よく見たらグルックだった。最近、あらすじを調べることさえしないで、毎日のようにマリア・カラスの声に聞き惚れている。もっとも、パゾリーニの映画に出演しているカラスなどを見ると、いまひとつ女性として好みのタイプではないのが残念なのだけれど。

フランク・ザッパの10枚組のCDがイギリスから発売されて、ライナー・ノーツさえ入っていないので、どういう出自のものかわからないのだが、学生時代のザッパへの熱狂が再燃した私は、聞くばかり。

ブートレグ集としてでているマイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンのファイナル・ツアーのライブCD。

プレストン・スタージェス『凱旋の英雄万歳』(1944年)。確か、プレストン・スタージェスが再評価されたのは、20年、30年前かしら、東京の銀座だったか、渋谷ではなかったと思うのだが、スタージェス祭のようなものが催されたことによるのだと思うが、祭りとはいっても、そのとき上映されたのは、『悪女イヴ』『パームビーチ・ストーリー』『サリヴァンの旅』の3本だったと記憶していて、いまから思うと絶妙の選択だった。この映画は、町の名士を祖父に、戦争の英雄を父にもつ男が、負傷のために除隊になってしまい、故郷に錦を飾ることもできないために、帰るに帰れず悶々と過ごしているところで、男の父親のことをよく知る海兵隊の一小隊を引き連れた将校に酒場で出会って事情を話すと、この将校が、落語の『宮戸川』のおじさんのように、わかった、みなまでいうな、と一人で状況を呑みこんで、なにくれとなく世話を焼いてしまうような人物だったもので、故郷に一緒に帰ることになったのだが、話がどうつながったのだか、町中揚げての凱旋騒ぎになっていて、挙げ句のはてには市長にまで祭り上げられようとするが、嘘に耐えられなくなって・・・つまらないことはないが、こうした話の映画だったら、フランク・キャプラの方が一日の長があるような気がする。

3月3日 水曜日

#チャーリー・パーカー #平岡正明 #マリア・カラス #フランク・ザッパ #マイルス・デイヴィス #ジョン・コルトレーン #オットー・クレンペラー #アニエス・ヴァルダ

前日に引き続き、チャーリー・パーカーのサヴォイ、ダイヤルでの録音、クリント・イーストウッド随一の妙な映画、下品なところをまったく省き、苦悩する芸術家としてパーカーを描いた『バード』にも、パーカーが現代音楽にも関心を抱いており、ストラヴィンスキーの自宅前まで、車を乗りつける場面があったが、ヴァレーズにも晩年に教えを請うたらしい。平岡正明の『チャーリー・パーカーの芸術』から。

 ヴァレーズはいいぞ。バードが死ぬ前に作曲法を教えてもらいにたずねた相手だから、どんな曲を書いているかと聴いてみたんだが、この人には思想が或。『アメリカ』Ameriquesという作品はミンガス『直立猿人』の父親みたいな曲だ。アルト・フルートによる冒頭の雰囲気は港湾労働で巨人都市がめざめる一日の始まりではなかろうか。クレーンに吊られてとほうもなく大量の物質が荷揚げされる。埠頭の水深は深い。遠くで霧笛か、あるいはパトカーのサイレンが鳴って、朝一番の労働者たちの眼がそちらに向くような感じがする。死体があったのだろう。死体の一つや二つはこの街ではどうということはない。巨大な質量は平然と動いている。

平岡正明は落語家の桂文楽を「見者」と評したけれども、本人も見者といわれるにふさわしい、なにしろ、こちとら、音楽を聴いてイメージが湧くことがまずないのである。

マリア・カラス、プッチーニの『ラ・ボエーム』、DVDで舞台を見たことがある作品だが、音楽だけで舞台が蘇ってくるようなことはない。基本的に、声だけあればよいのです。

フランク・ザッパのライブ、控えめにバックが演奏するなかでのメンバー同士での掛け合いが最高に楽しい。

マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーン、ラストツアーのブートレグ。安定の品質。

オットー・クレンペラーの指揮で、ベートーヴェンの第五交響曲、ハイドンの交響曲101番。ベートーヴェンの交響曲は、それこそ2~30人の指揮者のものを聴いたが、クレンペラーが一番好きかも知れない。もちろん、九曲それぞれがどうといいだしたら、込み入ったことになりますが。

アニエス・ヴァルダの映画、『落穂拾い』(2000年)、ミレーの『落穂拾い』のように、拾うことを生活様式に織り込んだ人たちに関するドキュメンタリーである。野菜や果物の形が悪くて商品化できないものを、拾い集めるひとたちから、都市部において、残飯や粗大ゴミ、というとどうも言葉がおかしくて、それらは単に木に実った果実のように消費文化の産物がなにかのきっかけで落ちたに過ぎない。その証拠にそれらをかき集める人たちは誰もが実に正々堂々としている。いわゆる粗大ゴミまでを囲い込んで(行政区分で異なるのだろうか)、持ち去れないようにしている日本の岡っ引き根性というか、小役人的発想はじつにくだらない。ヴァルダの映画のポイントは、ミレーの絵画に描かれたような人間が、現代の都市にも見いだせることにあって、『落穂拾い』の落ち穂拾いであって、そこに余計な社会問題を引き入れることにはない。

3月4日 木曜日

#ジョージ・シアリング #五代目三遊亭圓楽 #ジョセフ・フォン・スタンバーグ

ジョージ・シアリングをはじめてまともに聴く。『シアリング・スペル』(1955年)と『ヴェルヴェット・カーペット』(1956年)の二枚のLPがCD一枚に収まったもの。シアリングは、1919年のイギリス出身で、イギリスで演奏活動をしていて、30歳近くでアメリカに渡った。それかあらぬか、アメリカではクール派として活躍したわけだが、アメリカ出身の白人ジャズマン以上に、ブルース的な要素がきれいさっぱりない。「ラウンド・ミッドナイト」も演奏されているのだが、漆黒の夜の艶っぽさとは無縁で、おや、今日は早番かい、と声をかけたくなる。

マリア・カラスはカラヤン指揮の『蝶々夫人』、ザッパも引き続き聴く。

先代の五代目三遊亭圓楽の『中村仲蔵』『二十四孝』を聴く。談志、志ん朝に較べて過小評価されていると思う。『中村仲蔵』は役者の世界を描いたものとして『淀五郎』とちょいちょい混乱してしまう。しばらく聴いていて、ああ、こっちの噺か、となる。

ジョセフ・フォン・スタンバーグの『スペイン狂想曲』(1934年)をみる。原作がピエール・ルイス、翻案がドン・パトス(脚本は別にいる)という妙な組み合わせで、The Devil  is a Woman(『女という悪魔』とでもしたらいいか)という原題の方がずっといいと思うけれども、その題名につられて、あるいは原作がピエール・ルイスだということにつられて、ディートリヒ演じるコンチャがファム・ファタールなのかというと、なかなかこれが、なにを考えているかわからないほぼでたらめなコンチャの行状が語られていき(そしてそれが回想シーンとして演じられる)、その限りにおいてはファム・ファタール的な男を破滅させる宿命の女に思えないこともないのだが、終盤になるとこの語り手が、信用のならない語り手であることが明らかになり、さらには結末のひねりが加わると邦題の方が現状に即しているといえるのだが、悪魔というのは堕天使であり、堕天使も本来天使の一員である以上、やはり悪魔を活かした方が内容に合っている。

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