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クダンって知ってますか? 東雅夫『クダン狩り』(白澤社)

「件」と書きます。
人面牛身の妖怪だそうです。
危機を予言して死んでしまうそうです。
西日本を中心に伝承されてきたというのですが、寡聞にして知りませんでした。でもこの図柄は見たことがある気がします。
本書は東雅夫がクダンについて、書いた記事とクダンを扱った内田百閒、小松左京の小説作品、そして短い対談よりになっています。
いわゆる妖怪モノですが、東雅夫の姿勢が、幻想文学から怪談文芸という意識にあらわれています。つまり、文学から楽しみとしての文芸という意味です。
そこには現在のアニメやコミックに見るように、おどろおどろしく怖いものではなく、むしろ愛着している、または愛玩しているというような姿勢です。
ある意味、時代の意識が変わってきているというものです。
近代合理主義とも言える平面的で〈のペ~とした〉空間へのカウンターカルチャーだと考えている私は、この変化はある意味,、社会の規制が緩んできているからではないかと考えています。
規制が強い時には、強烈に恐れるものとして現れるからです。
このカウンターは怪談や妖怪ものに限らず、民俗学ということをめぐっても同じことです。
それにしても、興味を惹かれるのは、この平板で虚無的な空間というものに飽きたらない、それだけでは規制の多い息苦しい世界では虚しいと感じる心性が呼んでいることです。
文学や文芸の扱う感性がこのような冷え冷えとした社会からの人間性の回復にあったのですから、それはうなずけることです。
ただ、百閒と左京ではこの扱いが違うというのが、その個性のためというよりも、その語り口の人間観にあるのではないかということです。

内田百閒はクダンの内的独白とそれとくい違う周りの他者たちの違和感として描きます。
小松左京はSF作家なのでクダンが何であるかの具体的な絵解きまでして終わってくれます。この開示によってクダンの出現のドキドキ感は逆に安堵感に落されて行きます。最後の最後で他人にこの話をしてしまって、自分の娘に劫(業?)が乗り移って、角の生えた子が生まれるというオチを入れますが、人に話してはいけないということを知っていながら話してしまった主人公の心の動きは詳しくは描かれていません。せっかくの終戦前夜の緊張感ある世相が、それで飛んでしまったようで、もったいない気がします。小松左京がエンターテイメント作家だからと言ってしまってはもったいないようです。特にホラー小説として有名な作品なので、そこは結末をもう少し工夫があっても良いのではないかと考えています。
ところで小松左京の「くだんのはは」は人面牛身ではなく、牛面人身と反対になっています。

東雅夫はクダンの特徴として、
①  人面獣身である
②  牛から生まれる
③  予言する。その予言は、必ず当たる。(疫病や戦争など)
④  その姿を飾ると福を招くなど縁起物とされる。
という特徴の中で③だけしか当たっていないと述べています。
まして、福を招く縁起物ではなく、語る者としてまたクダンを生むという災いを述べています。
東雅夫はクダンハンターと自称して様々な取材を重ねていって、それを報告しているのですが、それが本書の第1部になっています。人魚や人面魚、人面犬と違うのは、牛は古くから農耕において重要な戦力であったから、人と牛との付き合いの親密さにあって、そこは単に人の面に似ているんだろうというレベルはとは違うというのです。クダンが「件」と書くのは「依りて件のごとし」と言うように、件は人編と牛がくっついた文字になります。
漢和辞典には、次のようにあります。

【件】ケン(解字)牛の転音が音をあらわす。ものを区別して数えるに用いる。
(字義)①わける。区別する。②ことがら③物事を数える語。《国訓》くだん。くだり。前にしるした文面という意。昔から証文の終わりに書く。「仍って件の如し」

なぜ、前にしるした文面という意味と妖怪クダンがつながるのかよくわからりません。
それを、東雅夫はラフカディオ・ハーンの著作からの引用をする形で述べています。
それはハーンが聞いたという形で会話文として引用しています。

クダンをご存じありませんか? クダン(件)というのは、顔が人間で、胴体が牛でしてね。どうかすると、牛から生まれてくることがあるんですが、これが生まれると、なにかが起こる前兆なんですな。件というやつは、つねに本当のことしか喋らない。ですから、日本の手紙や証文には『依って件の如し』という文句をよく使いますが、あれはつまり『件のように真実をもって』という意味なんですよ。

クダンは真実しか語らないからだというのだけれど、それは予言でもあるので、予言が的中するということなのだろうか。
単に見世物ではなくて、この予言するという点にこそ、このクダンの魅があるのでしょう。予言や占いに関して人が関心を持つのは、今年はどうなるかといったことから株価の予想まで大きく関心をそそるものです。当たっているか当たっていないかの検証もそこそこに次のものが出てくるという始末です。
特にこのクダンは感染病になり、戦争に関する予言であるので、差し迫った本当の危機に対するものなので、その特徴は際立っています。
単に災いをもたらすとか、逆に招福をもたらすようなものならいくらでもあるのでしょう。そうじゃなくて、もう1歩進んで表現するという領域に踏み込む、予言をするということが独特なのです。かつ3日後に死んでしまうというのがなんともせつなさというか妖怪なのに死ぬのかい? という内容に特別なものを感じます。

コロナ禍中に見られたアマビエ (疫病封じの妖怪)が流行りましたが、クダンならどのような予言をしたのでしょうか。そして守ってくれるのでしょうか。どうも同じような構造になっているのではないでしょうか。
アマビエはこちらも江戸後期の瓦版に刷り込みされたものであったと言われています。肥後国の海上に光ものが現れ、役人が行ってみるとアマビエだと名のり当年より6年間は豊作だが、同時に疫病が流行する、私の姿を描いて人々に見せようと予言したそうです。
頭を見ると人面魚神のようです。

クダンを研究してしまっては面白くないのでクダンはクダンとしては使えばいいのであって、むしろ東雅夫の言うように楽しんだら良いのだと思います。この現実のどうにもならない閉塞感のただよう中でのカウンターなのだと思うからです。
カウンターカルチャー(対抗文化)は必ずしも反抗を意味するだけではないので、メインカルチャーにとって変わったとしても、それはそれだけですでに面白くなくなってしまいます。

編著作者東雅夫を知ったのは絵本『いるのいないの』(岩崎書店)でした。そしてこの人が雑誌『幽』の編集長を歴任していたことを知って、今更ながらにそうだったんだとおもいました。
初期の『幽』は、毎号を買っていたので、書庫の奥に眠っていると思うのですが、どんな雑誌だったんだろうかと書庫を探してみると、実は『幽』ではなく『快』だったのです。それも0号から10号まで持っていました。そして飛んで43号がある。
あれれ、勘違いしているのか、騙されたか?

東雅夫は小松左京の「牛の首」と題するショート・ショートを紹介しています。それは紹介文によると、A氏とS氏が「牛の首」という話は、恐ろしい話だと話しているのを聞いた、私はどんな話か教えてほしいとせがむが、両氏とも青ざめて話してくれない。この話をしたり、聞いたりするだけでも悪いことが起こると言う。関心を持った、私はあちこち聞き回るが、みんな知っていると言うが、話の内容を教えてくれない。いつしか私は牛の首というあだ名が付けられてしまった。
探し回った挙句老大家の大先生がどうも出所らしいということをかぎつける。老先生を訪問すると今日は出かけるので、明日にしてほしいと言われる。次の日に出向くと大先生は海外に行ってしまったという。
そんな呆然としている中で、私はハタとわかってしまう。それは題名と非常に恐ろしい話だという事はわかっているが、誰もその内容を知らないなということが。恐怖だけが生き残っている怪談だということが。
後日、某TVディレクターに牛の首について尋ねられた、私は青ざめで答える「知っているが、あんな恐ろしい話は聞いたことがない」と。

いかにもショートショートらしいキレのある作品です。けれど、ヒヤリとするものが後に残ると東は述べています。
それは「これは友人の友人から聞いた話なんだけどね」という例の常套句をつかう都市伝説特有の出発点である前置きと同じだと。怖いことはわかっているが、何が怖いのかが杳としてわからないというものです。
つまりは調べていってもよくわからない、尻尾をつかまえたと思ったら雲散してしまうようなものなのです。そう言いたいのかもしれないのですが、この妖怪話も怪談話も根拠は無いのです。あるのは漠然とした不安だけなのだでしょう。

ところで、私は一体どこにクダンに魅せられたのだろうか?

そう、見つけた書店で立ち読みをしていて、つい購入してしまったのはなぜなのだろう。また一気に読了してしまいました。それもわからない。
妖怪や幽霊などの本をたくさん読んでいるし、そんな関係で手に取ったのだろうか?
いや違うなとモヤモヤしていました。

そんな時この本を紹介するブログ(Amebaブログ)を書いていて、ふと小松左京の「くだんのはは」にツッコミを入れてしまったことで発見したのです。発見というより気づいてしまったのです。

小松左京の作品については、冒頭でも触れているように、太平洋戦争の末期の世相や状況が組み込まれています。それは空襲によって焼け野が原になった、神戸の街で、一家離散となった少年の不安な心情とともに、時代の閉塞感が極まったという状況がいろいろ描かれています。そこにクダンが現れたということではないのでしょうか。終戦を予言し、広島への原爆投下を予言するクダンのことが、現在の世相状況と一致しているんじゃないかと感じたのではないかということでした。
瞑想によって気づくという事とともに書き下している最中に気づくということがあります。

書いてみることによって心の中が整理されるということがあります。その事は既に知っていたのですが、改めて、書き下す力に驚かされます。書き出してしまった腕の力に驚かされます。脳じゃないんです。腕が勝手に書くのです。
そうか。
現在もクダンの様に〈予言する妖怪〉がやってくるのではないかという期待のことだったのです。
いや求めているのかもしれない。異形の妖怪が未来を予言してくれることを。

クダンのWikipediaはこれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6


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