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如来蔵思想的なものを拒否するー鈴木隆泰『内在する仏 如来蔵』批判


あるマインドフルネスの会で、その寺の住職のレジメに「人間は仏性(如来蔵)が存在しているのでしょうか?」という文言があって、それに対して私がそんなものはないという見解を口走ったところから、始まった。
この同じ時期に別の思考経路から如来蔵というよりも、内在する〈私〉は、先験的に存在し、かつそれは仏性というような、一般的には善なるものと考えられている、あのようなものが存在するのかに関心を持っていて読み始めていた本があった。それがうまくこの文言に出会ってしまって、二つが反応したということだった。
その本というのが、鈴木隆泰の『内在する仏 如来蔵』である。私のテーゼはとりあえず横に置いておくとして、それより如来蔵思想、ないし如来蔵思想的なものはいくらでもある。それを統一して批判したいところだけれど、それはあまりにも長文になるのであろうから、ここはこの本に限定して批判したいと思う。

それに先立って仏教学界では、1980年末から1990年代にかけて、松本史朗、袴谷憲昭による如来蔵批判ないし本覚思想批判がなされた。それらを袴谷の自らの著作『批判仏教』にちなんで「批判仏教」と呼ばれた。

当然のことながらこの鈴木本でも触れないわけにはいかないから触れているが、それは正面からのものではなかった。むしろ揶揄するような形でなされ、それも他人の発言をもとに本にしている。(本書「あとがき」にある)
そしてまたこの本の末尾の項には「空性説の超克」とあるのに、そこには真正面からの批判でも反論でもない。超克どころか、単なる言い訳になってしまっている。(このことは後にもっと詳しく述べる)

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これだけのことを前提にしておいて、内容に入っていきたいが、これは何も仏教の如来蔵思想に関してのみ批判しているのではなく、もっと現実界を被っている如来蔵思想的なものを問題にしている。如来蔵が仏教であるとかないとかの議論にだけに関心があるわけではない。もっと一般論化して議論してみたい。
ただし、そもそも如来蔵とは何かについて話出さないと一般の読者には伝わらないだろうから、そこから入っていく。簡単にいうと凡夫の心の中に如来(仏)になる可能性が備わっているとする考えのことだ。そのようなものは無いとする考えが、如来蔵批判にあたる。
如来蔵批判については、松本史朗が「如来像思想は仏教にあらず」という論文を書いていて、それはネット上でも公開されている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/1/35_1_375/_pdf/-char/ja

私もこの論文に大きな影響受けている事は否定しがたいが、現在では若干立ち位置は違ってきている。しかし、その批判の根源である「空性説」という空ないし空性というナーガルジュナ(以下龍樹)の空論(私は空化論と呼んでいるが)については支持しているので、大きくは違わない。

松本の発言は論文を読んでもらえばわかるように、如来蔵思想とはdhātu-vādaだという。これを「唯一の実在する根源」と言っているので、絶対的なもの、一なるものが実在すると認めて、世界はそれが展開したのだとする思想のことだ。これを松本は仏教ではないと言う。

それに引きかえ鈴木は、この如来蔵を認めていて、如来蔵思想を定義して以下のように述べている。

如来蔵思想:一切衆生は如来を本性としており、そのことに基づいて、万人がブッダになり得る可能性を如来が衆生の内に見いだして、そのことを大慈悲に基づいて衆生に知らしめ、衆生に信じ生じさせる教説

このようにある。
読めばわかるように明らかに鈴木は如来の実在を認めているので、議論は噛み合っていないというより全く違う。
鈴木の説で注目するのは①如来は自己の外側にあって、あくまで外部に絶対的なものを認めている②かつそのブッダとなりえる保証を衆生の信に求めている。つまり信じないといけないのだ。
仏教学内の議論には深く立ち入らないのでもっと一般化した形で取り出してみると、何か唯一絶対的なものを認めるか認めないかにある。

この考えを強烈に打ち出したのが、南直哉の『超越と実存』だった。南は書いている「世界の思想には、仏教と仏教以外しかない」と。
この乱暴な物言いの説明として次のように書いた。すこし遠回りになるが、よりはっきりとするのでここから入って行きたい。

仏教では、「無常」と呼ぶ「実存」には存在根拠が欠けていると考えるが、仏教以外の思想は根拠があると考える。その根拠を押さえれば、実存の『核心』を理解できると信じている。
このとき、そういう根拠は、当然「実存」ではない。あるいは「実存」には含まれない。根拠が実存の内部にあっては、根拠として機能しない。
「根拠」とされるものは、実存の外部から、実存の仕方に対して決定的に作用しなければならない。それが「超越」的存在であり、古来東西の答えのごときものとして提案されてきたアイディアである。

この南直哉の超越的存在というのが、先の「唯一絶対なる根源」にあたるのだろうか。それは本質であり実体であって実在するという考えだ。
如来蔵思想もこれにあたる。
そこで如来蔵思想は仏教ではないという松本史朗の言説に近いと考えられる。
別に如来蔵思想に限らず、世界にはキリスト教の神から始まってイスラムの神から、ユダヤの神まで、そしてサムシンググレートという神までたくさんの絶対なるものを想定する思想は数多ある。宗教思想だけではなく一般思想にもあるし社会の中にも数数多くあるのだ。憲法こそは絶対的な原理であるという主張から、はたまた親は絶対であるいう家父長制、社長の方針は絶対であるまで様々な位相で存在している。基本は自分の外部に絶対なるものを置くという思考である。さすがに憲法なり親なり社長の話になると、それはおかしいんじゃないかという判断はできるのだが、神などと言われるとどうしてもその存在を認めてしまう事はあるだろう。
仏教ではそうではないというより釈迦がそうではなかった事は松本論文の中に述べられている。仏教でありながら180度反対側に行ってしまったものもたくさんある。唯識の法相から華厳、天台、密教まで、そして如来蔵もそうだ。それらがなぜ釈迦に帰依しながら全く逆になってしまったのかは思想現象としてはよくあるパターンなのだが、仏教もその例外なくそうだったというに過ぎない。
ではなぜ如来蔵ではダメなのかというと松本史朗はこれは差別思想としている点だという。詳しくは本論文を参照されたいが、要は、仏性が衆生それぞれにあるという平等性にもかかわらず、それぞれの属性は多用であるとする点だ。「多用(差別)を解消するどころか、かえってそれを維持し根拠づける原理となる」とある。これが支配の道具として使われるからだ。自分たちの利権を守るために利用されるという点が指摘される。自分たちだけが良い思いをしたいという欲望が宗教を利用しての階層の固定化と変化を認めないという手段と化してしまっているのだ。



鈴木本に文脈を戻してみよう。
先に「唯一絶対なる根源」を批判した釈迦の考えを先鋭的に受け継いだのが龍樹でそれは空性説と呼ばれている。アートマンの存在を否定したのだが、鈴木本ではアートマンを肯定しているので、そこは否定しないといけないのに、それはしていなくて、それも面と向かっての批判ではない。
それを扱っている項が二か所あって用語説明とあるページの「アートマン」と末尾の「空性説の超克」という二か所であった。
「アートマン」の項では当の龍樹の『中論』18章6偈を引用してアートマンはあるともないとも言えないので、裏をかえせば、あってもいいんじゃないかとしている。「仏教におけるアートマン論争の最終解答を見いだすことができるのではないだろうか」とまで書き結んでいる。とんでもない解釈だ。そこはどうしても見過ごせないので、詳しく議論しておきたい。
鈴木による18章6偈の引用訳はこうだ。


諸仏によって“アートマンはある”とも施設(せせつ)(仮説(かせつ))された。“アートマンはない”とも説かれた。“何かアートマンと呼ばれるものがあるわけでもなく、アートマンのないものがあるわけでもない”とも説かれた

(平仮名はルビ)


一見するとアートマンがあってもいいんじゃないかと読めるかもしれないが、桂紹隆・五島清隆『龍樹「根本中頌」を読む』(春秋社)では次のように訳している。

諸仏によって、(1)「自己はある(有我)」とも仮に説かれた(施設された)(2)「自己はない(無我)」とも説かれた。(3)「何か自己と呼ばれるものがあるわけでもなく、自己のないものがあるわけでもない(非有我非無我)」とも説かれた。(三句分別)

表面的には似たような訳文であると思われるかもしれないが、ここで三句分別としている点に注意してみると、この三句分別というのは同書によると『中論』の第二章「歩行行為の三時による考察」の偈をあつかう形で記述されている。
それをこの6偈に適用してみると次のように言えるだろうか。
まずは、言葉とその対象、指示対象/意味の間には恒久的な関係が成立しているとする真理対応説には立っていないということだ。有我と言っても無我といってもその対象物があるわけではない。それに(3)の何か自己と呼ばれるものがあるわけでもなく自己のないものがあるわけではないという「非有我非無我」という偈になっている。この文言は鈴木も“”でくくっているようにひとつながりのものだ。これをアートマンが在ってもなんら問題はないとするのは、全く空の概念がわかっていないと言わねばならない。概念と言ったら真理対応説と言われかねないから「空の何たるかが分かっていない」と言い直そう。そもそもこのひとつ手前の5偈では龍樹の言語批判の根源たる中論の有名な偈がある。

(5偈)
業と煩悩が消滅することにより解脱がある。
業と煩悩とは概念的思惟より生じる。諸々の概念的思惟は言語的多元性(戲論)より生じる。しかし言語的多元性は空性において滅する

概念的思惟はヴィカルパ(分別)の意味であり、言葉はそのままでは言葉の指示対象とそれ以外を分ける作用がある。それらはプラパンチャ(戲論)とされる言語的多元性によってもたらされるものだ。そして空性によってそれらは滅せられるというので、これは空性によって概念的思惟の迷いから解脱しえるとしていたのだ。言語の持つ多元性(虚構性)があたかも対象物と一致しているかのように錯覚させる作用があるというのだ。それは空性によって滅せられると喝破した偈文だった。
そこには桂、五島のいう「インド実在論の大前提を否定しているのです」というように実在論を否定している。
だから裏を返すことができないのだ。
そもそも鈴木隆泰のこの本は、実在論に立っているし、真理対応説に基づいて述べている。なぜこのような苦しい言い逃れをするのかというと大乗という限りは龍樹の空性説は避けて通れない。そこでこのような苦しい弁明をするのだ。龍樹の空性説はバラモン教のアートマンがブラフマンと合一するという梵我一如と同じ考えの土俵に立って、アートマンはあるという主張に対してアートマンは無いと言っているわけではないのだ。
同じ土俵ではないということに注目してほしい。

その証拠にこの桂・五島本の中でインド実在論のニヤーヤ学派の綱要書である『ニヤーヤ・スートラ』でこの龍樹たちの議論を間違った議論として否定しているとある。それはそうだろう。実在論派から見れば間違いだと言うだろう。しかし龍樹はそんな土俵にはいない。全く別の土俵に居る。言語は所詮言語であって対象物と一致していない。むしろあるがままの実存の方が問題だったのであって、実存としての如来蔵ないし仏性なんてものがあるのかを検討しなければならなかったんじゃないだろうか。

蛇足ながら先の鈴木の訳した文に戻ってみると「何かアートマンと呼ばれるものがあるわけでもなくアートマンのないものがあるわけではない」というのは一文であって、それを下段だけを取り出すことができないのだ。だから桂・五島は訳文では(1)(2)(3)と表記している。
この文は平板なひとつながりのものではなく(1)(2)(3)で位相が変わっている文章なのだ。そこが理解されていないということになる。その文章を単に平板に捉えるなら鈴木の言うように一部であるはずのものを後半だけを切り取ってアートマンがあっても良いと言うことに解釈されるかもしれないが、全くそのような事は書かれていない。


4
このような批判を予想してか、鈴木は「治療薬」という言葉を出して逃げ道を求めている。その意味が「あとがき」に詳しいというので「あとがき」を参照すると、若い頃に江島恵教の講義で「批判仏教」に苦言を呈していたという記憶から始まる。
それは以下のようだったと言う。

“如来蔵・仏性思想が仏教ではない”という人たちの発言は、はるか以前に実在していた『涅槃経』の信奉者たちに向かって、“あなたたちは実は仏教徒ではなかったのですよ”と言い渡す行為に等しい。そのように、過去の仏教徒を断罪するかのような発言をする権利が、はたして現代の研究者にあるのであろうか。

このような趣旨の発言をしたという記憶があってそれが心に残ったと言っている。
そして、その結論として「筆者は一研究者として、そして何よりも一人の仏教徒として、如来像思想を治療薬として選択した先達たちがいたことを大切にしていきたいと願っている」と如来蔵思想の側に立つことを鮮明に表明したのだった。
この「治療薬」と言うのは釈迦の「対機説法」を模した、相手によって説法を変えるという、あたかも相手によって薬を変えることを指している治療薬というわけだ。あくまで釈迦が薬を与えるという上目線にあり、かつ悟りは外部からやってくるということをも、示しているのだったが、そのようにいうのなら持ち上げた『涅槃経』のように空性説を真っ向から批判し、空の考え方は間違っているのだと批判すれば良いのだ。それをしないで今は亡き江島恵教を引き合いに出してくるのはいささか姑息である。
江島恵教といえば、私の若い頃に『中観思想の展開』によってヴァバヴィベーカ(清弁)(490―570)の研究者であった。
書庫の奥から引っ張り出してみると、その序文に次のようにあった。

『中論頌』は諸存在者の無自性(niḥsvabhāvatā)、空性(śūnyatā)を種々の観点から考察し、究極的に空性によって裏打ちさられた知を、完成された叡知、すなわち般若波羅蜜(prajñāpāramitā)として、全体系の基本に据えている。その観点から、通常の観念・言語が存在者を固定的・静的に把握するために生じる多くの矛盾を、『中論頌』は容赦なき論法で暴いていく。


このようにあった。
「容赦なき論法で暴いていく」という点に注目してほしい。
松本史朗は『縁起と空』という著作のある空観の研究者だったから容赦なく暴いていくということを実践している。
そう考えると江島は本当にそんな発言をしたのか信じがたい。しかし鈴木がそう言うのならそうかもしれないが「断罪する」とはいかがなものか? なにも断罪なんかしていない。松本史朗の考える仏教じゃないと言っただけだ。本当かなぁと疑ってしまう。

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先に如来蔵思想の差別性と支配の道具になり得ると発言したが、それにもましてもっと重要な事はこの如来蔵思想というのが一種のポピュリズムなのだということだと指摘しておきたい。衆生(一般大衆)におもねる発想があるということだ。俗な言葉で言えば「受けを狙っている」ということだ。さんざん好き勝手なことをしてきても、あなたは本性として仏性を持っているのだから救われるのだと言われたいし、言ってほしいという心根につけこんでいるものになっている。それは一見したり顔しながらの差別意識があり、また利権の固定化をねらう支配の道具になっているということだ。
釈迦の在世時にさかのぼって見ても、釈迦はアプルーバ、サンパーダだと言い残したように不放逸にせずに目的を達成しなさいと言い残して逝った。戒を守って目的を達成しなさいと。何を悟ったのかという内容は語られていない。しかし、そこには自分で悟れよという意味が含まれている。よく引用される阿含経には「法と自己を頼りに生きよ」といったとされている。法は真理であるとともに原理であるから、宇宙の原理まで拡大していってもいいかもしれない。自己というのは「本来の自己」であって、それは言語思考で作った自分の物語のことではない。そこに覚醒せよと言ったのだ。「本当の自己」と言ったらアートマンになってしまうので「本来の自己」と言い直しておく。しかしアートマン=実在のように「本来の自己」は実在するかどうかわからないが、私にとっては存在しているというものだ。

そのような自覚宗教であることを忘れて自己の外部に絶対なるものを求めるというのは仏教ではない。鈴木のこの能天気さには驚かされるが、一方鈴木には『葬式仏教正当論―仏典で実証する』も書いているので、このポピュリズムというか日本の伝統仏教擁護論というか、職場の利権を守るための本というか葬式仏教を正当化していることも間違いない。
「葬式仏教」という言葉は、本来の仏教を伝えることをおろそかにして葬式のみと化している日本仏教の事情を揶揄した言葉であって、それを鈴木はいやそうではなく仏教本来の「正当」だという論を展開している。
私も鈴木とは別の思考ルートから葬式仏教は重要だという結論にあるので、その点だけでは評価したい。
鈴木をかなり辛辣に批判してきたが、ここの点だけでは評価している。
しかし私の場合は思考としてたどってきた道は鈴木とは違い本来の仕事ではあるという部分ではなく、むしろ現在の状況においてはもはや日本仏教はそれでしかないという認識と人が死んだら何か宗教的ないし仏教的行事を通してやるしかないという意味で葬式仏教は必要だし重要と思うという意味だった。
もうだれも法話を聞きに行かないし、集団的な仏教、つまり教団・教派への関心は薄れてきていて、信者はどんどん減少している。今後もどんどん減っていくだろう。こんな状況が日本では進んでいるのだ。
だからといって日本人に宗教心がなくなるはずもなく、宗教はもっと個人宗教としか存在しないのではないのだろうかと予想している。集団化してもそれは弱い関わりで教団・教派が、かつて力を持っていたようなことにはならないだろう。寺院も存続のためには何でもしなければならなくなりマルチな事業に手を出している始末だ。ここでも必要なのは死をむかえた時の宗教であり、人間である限りスピリチュアルなものを含む宗教心を満足させる宗教行事は必要であって、それを否定することはできない。そういう鈴木のような観点からではなく、葬式仏教を肯定的に捉えている。

ここでも、どうあるべきかの本質論ではなく先に実存があるのだと言いたい。この実存に応えていくには、如来蔵思想という言語思考による教説・納得という救いではなく、自らが「本来の自己」を発見していかなくてはならない。それは絶えなる空化を必要としているのだ。


 


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