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ピーター・シンガー『なぜヴィーガンか?』思いあがった人類のなれの果て

読み終わって、なにか嫌なものを感じた。それがなんだかわからずにいて、気持ちがスッキリしなかった。自分の周りの人を探してみても、ヴィーガンだと言った人は一人ぐらいしかいない。そのひとは、「個人的にひとりでヴィーガンやってます」と控えめだった。ベジタリアンと違ってヴィーガンはもっと強烈的で押しつけがましい。地球温暖化に過激な環境派のような信仰に裏付けされているみたいだ。出会ったひととは幾分か違う。

ピーター・シンガー(註1)そのひとは完璧なヴィーガンではなく、放し飼いにされた鶏卵を食べるし、牡蠣や二枚貝を食べるという(註2)。自分のことを「フレキシブルなヴィーガン」と呼んでいるらしい。あいまいだと押さえておこう。なぜそうなのかは後に述べる。


本書解説によるとヴィーガンというのは「肉や卵、牛乳、チーズやバター、魚介類などの動物由来の食べ物を一切食べない食生活をする人」だとある。ベジタリアンというのは「肉は食べないが卵や牛乳などの乳製品は食べる人なども含む広い呼び方である」としている。他にぺスコベジタリアンとかぺスカタリアンとかの分類があるらしいが、どうでもいいだろう。

ヴィーガン主張の厄介な点は倫理を持ち出してくることだろう。ピーター・シンガーの動物解放論という倫理だ。種内のレイシズム(人種差別)だけでなく種を超えたスペーシズム(種差別)を言い出している点にあるのだろう。人間と動物を差別するなということだ。この本の帯にあるように「倫理的に食べる」というものだ。動物だって苦痛を感じている、そんな肉はたべるな、道徳に反するという。そして食肉産業を糾弾して、あげつらう。この考え方が欧米から出てきたものであることは間違いがないだろう。これに環境問題がつけ加えられることによって、その輪郭ははっきりするのではないか。(そこには反近代のにおいがする。いや、逆にそこはもっと徹底した近代主義者なのかもしれない?)

読み進むうちにヴィーガンを実行する根拠は①動物愛護・福祉②気候変動問題③自分の健康に集約されそうだ。①と②は政治問題であり③は健康問題だろう。

①  は確かにその通りで、虐待されて食に出されるというのは心が痛む。せめて放し飼いにしてほしいと感じるだろう。それでは採算が合わないと言っても、そこは勘案されてしかるべきとも思える。
②  の気候変動というのは、主に牛のゲップやオナラからメタンガスが出ていて温暖化に悪影響を及ぼしているというもので、地球温暖化のCO2とともにあげられるものだ。しかし、これには根拠はないとする意見もあるので、地球温暖化というけれど、そんなものはあり得ないとする主張もある。(どちらかというと私はそちらの方に組しているんだけれど)
③  は健康問題で、肉はやめろという主張だけれど、ヴィーガンはビタミンB12とビタミンDが不足するので、サプリメントを取るように推奨されていることを考えるなら、理想的な食事とは言えないだろう。食だけで賄えないのだから。

この書に刺激をうけて、森映子『ヴィーガン探訪』(角川新書)を読んだ。論調は同じようなものだけれど、いろいろと取材していて、けっこうまともな地点に落ち着いている。こんな私でも、ケージ飼いの卵より放し飼いの卵を食べたいと感じさせた。(そこで、スーパーに走って6個300円の卵を購入した)

それでもヴィーガンへの批判というか、なんだかなぁという感覚はやはり倫理の押し売りにあるし、人類をそんなに崇高なものにしたいのかという疑問もある。人類も動物なのだから、他の動物の命を食らって生きている。人類だけが特別なものではないし、人類だって食われているのだ。何よって? 細菌やウイルスによって。そういう認識がまるでない。確かに人食いトラによって食われているというようなものではないが、細菌やウイルスだって生命だろう。そうだとすれば、生命体によって生命体は食われているのだ。肉を食わないからと言ってそんな現実から解放されているわけではない。

インドに2000年以上前から続くベジタリアン、ジャイナ教がある。ジャイナ教徒はもっと徹底していて、肉だけでなく植物の「種(たね)」や「根」も食べない。種は生命そのもだし、根は成長に欠かせないからだという。ヴィーガンのように脳・中枢神経のある動物は苦痛をかんじるから食べないという中途半端なものではない。生命そのものを食べないのだ。食べないというより不殺生なのだ。生命を殺すなという教えにある。それでは餓死するので、植物の中でも選んで食べている。その基準は、感覚器の少ないものから食するとある。それは、生命体を感覚器の数で分類する基準である。人間は6つある。不動の生命体である植物は低位の生物であるので食してもよくて、より高次の生命体である、多数の感覚器をもつ動物は食べないというようにである。

在家はそうだけれど、出家者となるともっと厳格で、托鉢でいただいたものしか食べないし、老化して死を予感すると全く食べなくて断食に入るのだという。まさに命を食べない実践に入るのだという。これは自殺でも自死でもなく自発死だという。そして、それを達成した出家者は尊敬されるという。
ヴィーガンにそこまで徹底する覚悟があるのか? と聞きたい。綺麗ごとで済ませているんじゃないか。自己満足か? ヴィーガンの脳・中枢神経のある動物は痛みを感じるからダメなのだという基準は、遠い昔、白人によって差別された黒人ないし黄色人種に対して、同じ種なのだからそれは差別に当たると人種差別撤廃の議論した時の構造と何ら変わらない。人間範囲の内から動物に広げたまでのことで、その基準が、中枢神経のあるなしに移動しただけのことだ。同じ移動させるなら、ジャイナ教徒のように生命を殺すなというところまで、拡張すればいいじゃないか。そうしたら、合成肉とミネラル、合成食物繊維など人造の食料が生産されなければ生きていけないだろう。そこまで、行く気概があるのか?

倫理より生活原理(ヒト(註3)は今日も食べ、明日も食べなければ生きていけない。食べ続けないといけないという原理)を私は言い出したわけであるが、そんな私でも、先に述べたように鶏や豚の飼育に関する記事を読むとそこは心が痛む。生活原理だからと言って、なにをやってもいいとはいえない。むしろ金儲けのためだから、生活原理ではなくそれは利益主義なのだ。経済(オイコノミア:ともに生きる原理)というもともとの意味ではなく、経済システムに翻弄されているともいえる。

ところで、このブログの副題である「思いあがった人類のなれの果て」はA神に近づいたという思い上がりから、動物の福祉を言いたてる人々のこと、Bなりふり構わず強欲のために動物たちを虐待して儲けようとする人のあさましさ、のいずれであるのだろうか?

もちろん、スタートはAだった。それがBへと変化して、いやどちらでもないという心境にある。AとBではそもそも位相が違うのだ。ただし、どちらも現実に根差していることには違いない。もっと違った地点から見るなら、ヒトも動物だから他の生命をいただいて生きづけるしかない。しかし、だからと言って居直って何をしてもいいと言わけではないということだろう。むしろ、ジャイナ教徒の出家者のように死ぬべきではないのか。死を予感したら断食して死ぬということは、究極の我々の選択支なのかもしれない。ヒトは生き続けちゃいけないのだ。むろん、個体がということだ。次の個体が生まれてくるのであるから。

さて、冒頭に掲げた違和感について答えておかないといけないだろう。一体何だったんだろうか。その正体は、いわば「ロゴスの暴走」ではないかと思う。論理的に語られているので、一見して違うとは言いにくい。しかし、それは瞑想をしてみると明らかではないだろうか。人間の実存、つまり理由もなくこうであるという現実存在のことだ。それに照らし合わせてみるなら、やはり暴走している。何かをひねり出さねばならないと思いついた観念をロゴスに仕立てて見せただけなのではないか。なにか正義面をして倫理を述べたところで、圧倒的なヒトの厚かましさ、強欲さ、意地汚さはぬぐい切れない。ゆえにヴィーガンについても「変な人」扱いされるし、マイナーな存在にしか過ぎないのである。

ここまで書いてきて、Amazonに頼んでおいたヴィクトリア・ブレイスウェイトの『魚は痛みを感じるか?』が届いた。生物学者らしく慎重に議論している。痛みを侵害受容(nociception)という概念で説明しようと始めている。nociは損害または何らかのダメージ、ceptionは受容、知覚あるいは検知するという意味だという。魚だってなにか不快のものを感じるということは間違いなさそうだ。しかし、それがヒトと同じように繰り返しおもいだされて苦痛になるのかというとそれはまだわからないらしい。ここは「苦痛」の「痛」はあるけれど「苦」はあるのかという問題だ。まだ読書途中なので、この件については別稿に譲りたいが、なにか示唆を与えてくれそううな気がする。

註1
ピーター・シンガーはオーストラリアの功利主義哲学者で、倫理学の人だという。しかし、ここで展開されているのは哲学とは普通はいわない。むしろ思想なのだ。ピーター・シンガーの言語思考で作られた観念にすぎない。倫理学というからには、人間側から見た動物を対象としたときの行動規範、道徳観をというものだろう。動物と共にある、並列しているという観点ではない。動物畜産を批判して、畜産動物を殺すことをやめれば、人間が使える食料はこれまでよりもはるかに多くなりそれを適切に分配できれば、地球から飢餓と栄養失調はなくなるとする説は、人間存在の実存にかなっていない。

註2
ゲージ飼いの束縛され苦痛を味合わせることは道徳に反するので食べないが、自由に生きている放し飼いの鳥の卵は食べるという意味。むろんそれでも鶏肉そのもは食べませんが。

註3
ここで、人間、人類からヒトに言い換えた。数ある動物たちの内の一つという意味を込めている。


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