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自立の思想2.0を目指して



 
自立の思想は、詩人であり思想家であった吉本隆明が目指した理念でした。
それは何よりも思想的自立というだけではなくて政治的自立でもあり、精神的自立のことでした。経済的に自立しているというのは自立というよりも「自活」のことであり、生活として自活できなくとも精神的に誰にも頼らない、自分で考え,、思惟することができるということを意味していました。
不幸にして身体的自由を奪われ他者のお世話にならないと生きていけないとしても、精神的には、自分で考え、誰にも媚びず、誰にも従属しない自立は可能なのです。
そのように自分も自立して、自前の思想とまではいかなくとも自分の考えを持ちたいと専念してきました。それも高望みをして、誰もが考えないようなオリジナルなものを志向していたのです。そのようなものが簡単に手に入るはずもなく、長らく苦しんだことがありました。
しかし、今思い出してみると、それが時間の経過とともに、いつの間にか形を取り始め、そして集約していくことを感じています。それが年齢のせいなのか、それとも観念の自然過程であるのか分かりませんが、まとまりだしてきているのです。
そのポイントは、思想というものが、言語思考という、いわゆるシンキングのことをだと気づいたのです。言語思考はいかようにも変化しますし、かつこれといって同じものはありません。それほどバリエーションの大きいものです。まして、これで終わりというものがありません。ある程度まとまっても満足するかというとそうはいきません。文字言語を使って書き下したとしても、すぐにまた不足がやってきて、次へと移っていってしまいます。
これは言語思考そのものの特徴だし限界だということを、現実に向けて対応したときには、現実との齟齬が生じるといことです。そこには言葉というものが指示対象と直接つながっていないからだと気づいたのです。でも思考するときは、同じものとして捉えて考えるシンキングには、ロジカルシンキングという言葉がありますが、まさに言葉の上の論理の組み立てで考えを進めるのです。しかし、それは現実と似ているようでも同じではありません。それゆえに実践ともギャップが生じます。考えたようにはいかないという事態に出くわすのです。
この事態は古来より繰り返されてきた言語批判にあるように、「言葉に騙されるな」から「言語そのものの虚構性、言葉の多元性を疑え」まで何度も語られてきたものです。しかし、つい言語に寄り添ってしまうし、言語を用いた判断をしてしまいがちです。それも思想だけではなく、法律の世界もそうですし、法律を使う政治の世界も同じようなものです。政治は単に論理だけではなく情緒の部分にも訴えかけますので、もっと幅広い言葉の世界が広がっていると言えるでしょう。また宗教となるともっと広くて不合理というような言説も含んできます。言語思考だけど論理的ではなく、脈絡の曖昧なものまで存在しています。
 
そんな中で、言語思想の限界を感じたのは、どうしても現在へ向けても思考が上滑りで、無力であると感じ始めた情況にありました。言葉に無力感を感じます。思想というものが役に立たない。そこには永遠に拡散していく言葉の無力さを感じるようになっていったからです。それは長く続きました。

抽象的に語るより、年代を明記して思想情況なり政治情況として話したほうがわかりやすいのかもしれませんが、そんな情況論をやってもせんないことだと感じますし、膨大な言葉を費やすことになるでしょう。そう感じてしまいますので、ここでは触れません。
 
そんな情況下認識で取り入れたのが、身体技法を取り入れてみようということでした。
スタートは瞑想から始めたのですが、それからヨーガ、野口整体、その流れにある二宮整体、足もみ術である官足法にまで広がっていきました。まだまだ広がっていくかもしれません。面白くてたまりません。

そんな中で感じた事は、単に身体に訊けという単純なことではなく、古来より身心一如や道元じゃないけれど、修行と学問どちらも必要だというように、言語思考だけではなく身体を使った修行も必要だということです。思想も何らかの身体技法が裏打ちしていないといけないというものでした。


それが、理論と実践のように通俗化された形のものではなく、真に頭と身体を使った知でないといけないのではないかという問題意識でした。これは言語思想にその思想内容に影響与える身体技法ないし、全く思考内容には関係しないが、言語思想に影響するという逆説的な身体技法なのです。
そのような身体技法が必要なのではないかということです。
 
始めて見ると、思想の行き詰まりのようなものが氷解していくのを感じましたし、ほとんど流行の思想書をおっかけることもなくなりました。知解(知的理解)するということにも関心が薄くなりました。なんとかしなきゃいけないと考えていた政治的主張も距離をとって、見えるようになりました。(けっして捨てたわけではありません)自分の書く文章も、ずっと変わってきたように思います。妙にマニアックな世界を難しく語るのではなく、もっと平易に語りたいと考えるようになってきました。
 
それらの語りたいことのひとつが、瞑想や坐禅では自分で悟ることであり、野口整体では自分の治癒力を取り戻すことであり、官足法では自分の健康は自分で守るということでした。
他人に(あえてここでは他者とは言わずに他人といいます)頼ることなく、依存することなく自分で悟り、自分で手当てする、自分で治癒することの重要性です。これこそ、自立ではないかと気づいたのです。


自立は単に思想や精神面の自立だけではなく身体的にも自立していくことだと付け加えたいのです。
そうであってこそ「自立の思想2.0」だと思います。

ここで終わればいいものを、蛇足として補足します。

それは永井均の〈私〉論です。独在論的存在構造と永井は言いますが、この論に注目しています。「自立」というよりも、そもそも〈私〉しかいないのだから、自立もなにも関係ないのだということです。他があってこその自なので、他者いなければ自立もなにもないのです。自分の展開する世界は〈私〉の展開であり、〈私〉にしかわからない。〈私〉がすべてであって、一から十なのです。たしかに他者は存在しますが、どうもいるらしいというぐらいのものです。
この論の出発点は、デカルトのコギト・エルゴ・スムの私の発見ですが、瞑想をしているとよくわかります。まだ、十全には語られていないけれど、これまで、言語化できないとされてきた〈気づき〉を言語化することができるかもしれません。それも、身体技法の関与なしにはあり得ないだろうと感じています。 
そういうと、自分勝手に生きていくかのように思われるかもしれませんが、そうではないのです。娑婆世間とのつきあいとして情況におされて、様々なことをしています。現にこのような駄文を書いてブログとして掲載しています。これは確かに他者がいると〈私〉は感じているのです。いや、そもそも他者がいなければ自分も存在しないのですから、当然すでに事前にセットされているのです。
この娑婆世間との付き合いは、内山興正老師に言わせれば、「死ぬまでの暇つぶし」なのでしょうが、だらだらせず、一生懸命に暇つぶしをしています。 
 

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