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ジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』(景文館書店)恋愛論

薄い冊子だ。
帯にバタイユの恋愛論とあるがなかなかその恋愛が出てこない。19ページにやっと出てくる。
でもこれは男の側から見たものになっている。
(このことは、注意してもしすぎることはない)

その文脈だけをたどる文言は以下のようになるだろうか。

「ひとまとまりの偶然なのだ」とあって

「男がしばしば死ぬほどまでに結ばれていると感じている運命の女の形象を作りだしている」

「この欲求は、ずっと以前から男に執拗(しつよう)に付(つ)きまとっていながら、なかなか満されずにきたので、愛する存在(ひと)が現れたとたんこの存在(ひと)に極端な好運という色合いを与えてしまうのだ」として発生する。

「運命のはかないイメージは、ひとたび獲得されると、あるいは失われると、それだけでもう偶然の形象であることをやめて、運命を立ち止まらせる現実になるのだ」

恋人たちの世界が成立した後。

「恋人たちの世界は、売春や結婚を越えたところにあってもまだなお、ゲームの世界よりいっそうひどくイカサマに委(ゆだ)ねられている。」

「愛はそれだけで一つの世界を作りあげるのだが、この世界の周囲に対しては何も影響を与えずにいる」

「儀式として生きられた神話では、生が、ベッドの上で裸になって愛する女に劣らず恐ろしくまた美しく現れでるからである」

そしてこれは、原注に引き継がれる。

「《恋人たちの世界》の描写は、論証的な価値しか持っていない。この世界は、目下の生においてきわめて稀な可能性でしかない」

「《恋人たちの世界》を社会の原初的形態とみなしたりすれば、それは間違いなのだろう」

というところで終わっている。
男女のペアが社会事象の基底にあるというのは間違いだと言っている。

「総合的な実存」、その意味は帯にあるように「《その顔が見えなくなるとこころが苦しくなる》そんな顔がこの世を輝かしく変容させる…」に近いとは言え、それは生を完成させはしないと。
じやぁ、どこが恋愛論なんだと不満を持ちつつも、男と女の間の関係に実存の総合性に向かう恋愛などあるのか? と問うてみたとしても、また落ち着くところに落ち着いているかのようである。
それにしてもワクワク・ドキドキさせる恋愛なるものに憧れるのは故なしとはしない。
ちなみにこれは20世紀初頭、1938年に発表された論文で、バタイは激しい恋愛の最中にいたと訳者は「あとがき」で述べている。
現在となっては、恋愛に総合的な実存*を回復させるようなものではないことは、もう当然のことであるかのようなところまで追い込まれている。
(だからこそ逆に、求めるのだけれど)
その前に実はこれは決して恋愛論などではなく、20世紀初頭のナチスが台頭してくる危機の中で、学問も芸術も政治も不毛に陥った中での生き生きした実存の復活として恋愛をあつかったものだった。主題はそこではなかったのかもしれないけれど。
しかし、恋愛は不可能だと結論して方向転換して最終節で「神話」の復活に期すが中途半端に終わっている。
その社会論はともかくとして、恋愛は今日では何の力もないのか?
可能性もないのだろうか?
そういう点につなげてみると今日では原理的にはやはりそうだというか、位相が違うので社会的なものとは直接関わる事はないと考えられる。
しかし、バタイユの真摯さを考慮に入れるなら、恋愛という幻想劇をどう取り込んだらいいのだろう。

*バタイユにとって実存というのは、酒井健の訳注によれば「「今ここで生きている」という人間の生の現実、あるがままの人間のあり方を指し、しかも「人間の運命」と密接に関わっている事態として説明されている。「実存」を損なう近代生活は「人間の運命」に背をむけているというのがこの論文の基本テーマである」としている。いわば、近代主義批判であるのだが、これをすこし組み替えて、この実存が、「今ここ」とあるように宗教体験でもある意識だとすると、単に近代生活を批判するだけでなくて、そこでの覚醒が求められるとともに近代市民社会(この娑婆世間ということ)へと戻ってきて、そこでも思考するという事が求められる。


視点を一気に横滑りさせて仏教ではどう理解しているのかということを考えてみよう。恋愛とは「愛着」ないし「愛欲」であるから、それらは消滅させることが求められるというのが仏教の公式見解である。
つまり愛欲と煩悩とは消しさることが求められる対象だということになる。
でも「あとがき」にあるようにロールへの愛ないし愛着は本当に捨てさられるべきものなのかと問うているのだ。
本当の恋愛に全く何の意味もないものだろうか?
それならばなぜ人は恋をしたがるのか? 
なぜその時、突然に心が騒ぎ出すのだろうか。
そしてその顛末しての愛憎劇は展開されるのか。
自ら作ったイメージの獲得というものに生を見つけ出すのか。

道元は必ずしも消滅すべき煩悩とは考えていなかったようである。頼住光子は、『正法眼蔵入門』の中の一つの注でこう述べている。

「(10)仏教の公式見解に従って、この「愛惜」「棄権」を克服すべき煩悩、執着として捉える解釈も古来行われているが、他方、迷梧一如として両者ともに「迷いでありつつも、愛惜の底に愛憎を超える如是の実相」とも解釈されている。(中略)『正法眼蔵』本文では、この直後に、「迷いを大悟するは諸仏なり」と迷いが肯定的に語られることを参考にするならば、後者が妥当であろう」

「愛惜」は仏教用語で愛着と同じ意味だ。
愛着の底に愛憎を超える実相があるというのだが、そんなものがあるのか?
ただし、これは性に関する本文の注ではなく、『正法眼蔵』「現成公案」の巻の有名な一説に関しての注として入れていた。

「仏はもとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり明言あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといえども、華は愛惜にちり、草は棄権におふるのみなり」
(仏道というものは、本来的な様相としては、豊倹(「多」と「小」)というような二元対立的分節をはるかに超え出たものであり、さらに、そのような二元対立を超越した無分節の世界を基盤にして、生滅、迷梧、衆生と仏といった二元対立、分節が成立する。
しかも、このように我々の眼前の世界は、本来、主客合一、自他一如の無分節の世界を基盤としているとはいうものの、そこではまさに花は惜しまれつつ散り、草は嫌われつつ生い茂る。これこそがまさに眼前の絶対的事実なのだ」(頼住光子訳)

という原文を論じた中での注であった。
頼住は言う。
「落花や草の繁茂に接した時の「愛惜」や「棄権」は分節と結びついて生じる感情である。花と草を分けそれぞれに価値をつけることから、このような好悪の情は生まれる。(10)〈ここに先の注(10)は入っていたのだ〉仏教では、本来、このような情は執着であり、捨てるべき迷情と解釈されるが、道元は、花を愛で草を除いて庭を整えるという人間の生の構図の中でおのずと湧いてくる好悪を一方的に否定はしない。しかし、それは特定の生の構図の中から必然的に出てくるものであり、違う生の構図からは違った見方が生まれることを理解すべきだと、道元は考える」
と述べる。
これは花草のことだった。

だがこの愛惜を、人におき変えても同じことだろう。恋愛対象となる=好き、恋愛対象とならない=嫌いも「特定の生の構図」から発生するもので、入れ替わり可能だと。
そうだとすれば、まさに愛憎劇が展開することも納得される。

しかし、問題はそこではなくて、鎌倉時代に男女の性の幻想の中に「恋愛」という概念があったかどうかは疑わしいが、愛するという観念(かけがえのないものと思う)が、裏に欲望を持っていることは疑いようのないもので、(嫌いも同じく裏側に欲望を持っている)愛よりも慈悲だと仏教は述べたのであった。

バタイユの言っている事は、そうではなくて、好きだとして愛惜しているものの中に、実存を回復してくれるものがあるのだということだった。
結果的にそんなものなどありはしないと言ってしまったが、この恋愛感情=好悪の情はどこから出てくるのだろうか?
明らかに私から出てくるのであろうが、それは世間を知り世界の構造を学習して、作られた「私」(こういうものが私だと主張する、維持している私)ではないのではないだろうか。それはもっと〈私〉の本源から発せられたものだ。

何だか知らないけれどピンときた。
ある日突然出会ってしまったという恋愛の発生にある。これは分節以前ではないのか? すでに既知の花でも草でもなく、ある日突然始まったのだ。バタイユの場合は1931年頃のパリ六区サンジェルマン=デプレのカフェでのことだった。フレット=ロール-リュシエンヌ・ペーニョ(1903-38)であった。彼女は結核で死亡した。
「最初の日から私は彼女とのあいだに完全な透明性を感じていた」と手帳に書き込んでいた。むろん、手帳に書くこむ以前のことだ。文字化したというときにはすでに分節化している。
そしてその出会いの展開は共生を始めるんだけれど、それは通俗的だと言っても良い展開だが、その発生に「実相」はあるのか。あるようにあった、そのようにあったというその事実しかないのではないか。
恋愛ということにあまりにも価値を置きすぎるきらいが、西洋の文化の中に共通してあったのかもしれないが、その現象形態は時代を超えて存在するはずで、それを無視することはできないだろう。
他者論でいえば、正体不明の他者がよく理解できる他者に変わったのかということも、錯覚としか言えないのではないかというのが正直な感想だ。

道元の言うように好きは好き、嫌いは嫌いという絶対の事実としてなら、身も心もそれを引きずっていくしかない。それはエゴな身を持ち雑ぱくな心を持てる存在として仕方がないことだ。
花なれば好きと言っても返ってくる言葉はないけれど、人ならば何らかの反応はあって、互いの生の構図が動き出す。
後年、1951年のバタイユの恋愛論「死すべき存在の愛」では、恋愛の最中の男女は「一陣の風のなかの二つの息吹」とさらりと語られていると訳者は「あとがき」で述べている。
そこにはもう何も期待していないかのようである。
訳者酒井健は、「直接的な生の感覚こそが大切なのだと切羽詰まった口調で主張するバタイユの気概は、媒介(メディア)に染まって無自覚のままの我々の衰退を意識させ「生きる理由」の何たるかを教えてやまないと思うのだ」としてあとがきを結んだ。
それは言い直せば、いきいきした実存こそが、生きる理由といっているのに等しい。
ところで、この書のタイトル「魔法使いの弟子」とは、訳注によれば、ゲーテの詩にあるのだが、魔法使いが、用事で出かけるときに弟子に水汲みを指示したが、弟子は、さぼろうと箒に魔法をかけて水汲みをさせた。しかし、魔法を解く呪文を知らないために、部屋が水浸しになり、さらにひどいことになりそうなときに魔法使いが帰還して、大事にいたらなかったというエピソードになっているという。
これは、アレキサンドル・コジェーブがバタイユをこのへまな弟子にみたてて批判したという事らしい。恋愛のことではなく、「聖の社会学」という試みに対するコジェーブの危機感の現れだった。
その謂いをバタイユは最後の節の見出しタイトルにしている。それは開き直りともとれる発言で、「失われた総合性への回帰」こそが、重要だと言わんばかりの居直りだ。大洪水になってもいいという気概でもある。恋愛の大洪水に我らは耐えうるか?
ともかく恋愛が始まったらワクワク・ドキドキさせることは間違いない。
それもそのように。
恁麼。

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