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レオとマブはレオマブとなり、何度でも王の家臣として復活する


えっレオマブ生き返った?????


と結構な数のさらざんまい視聴者が思った11皿が放送されてしばらく経ちました。いまだにさらざんまいに関しては行間を考えきれておらずまだまだ沼から抜け出せそうにありません。

今回は、レオマブの唐突な復活に意味を見出して自分なりに納得してみようと思います。
 なんと偶然手に取った大澤真幸著『社会学史』という本※1からヒントを見位出すことができ、拙い文ではあるかと思いますが、遅まきながら考察と解釈を書いてみようと思います。
この本がヒントになるよとツイートをしたところ、本を買って見たという方がいらっしゃって解説を読みたいとのリクエストまで頂き本当に嬉しいことだったのでウッキウキで書きました。

当人でも噛み砕ききれていない部分もあるとは思いますが、理解した部分をできる限り親しみやすい解説にしたつもりです。
(ソースはURLなど見つかり次第追記)

また、大澤真幸著『社会学史』をお持ちの方はP270〜P273を併せてお読みいただけるとより理解しやすいかと思われます。

社会学の歴史の本であるため、前章までにデュルケーム(社会の発見)の話を終え該当の章は社会学者ジンメル※2の社会学を下敷きに話を進めていきます。

▪️この文章の目的
・さらざんまい11皿のレオマブ復活に意味と解釈を与え
この記事を読んでくださった方の新たな解釈の手助けとなる事。
・社会学者ゲオルク・ジンメルの感性を元に概念的に解釈する。


当note読む方は192%繰り返し観てるはずですが一応メインストーリー引用↓

”舞台は浅草。
中学2年生の矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の3人はある日、謎のカッパ型生命体“ケッピ”に出会い、
無理やり尻子玉を奪われカッパに変身させられてしまう。

『元の姿に戻りたければ“ある方法”でつながり、ゾンビの尻子玉を持ってこい』
ケッピにそう告げられる3人。少年たちはつながりあい、ゾンビの尻子玉を奪うことができるのか?!
同じ頃、新星玲央と阿久津真武が勤務する交番でも
何かが起ころうとしていたー。”

https://www.youtube.com/watch?v=p_1QGHXyK14

結論から言うと、

レオマブが11皿で復活できたのは、
・レオマブは人間とは違う仕組みで世界に存在しているから
・ケッピ王子が復活したから

です。(気弱

本来的に人間社会というのは3人でつながること、三人結合からはじまります。
さらざんまい、のタイトルはお皿が3つで皿3枚(皿三昧)で、3という数字がとても重要なことが実は盛り込まれているわけです。これは幾原監督も再三言ってた基本事項。


私たちが生きて行くためには最低3人の人間が必要なのです。
さらざんまいでいうと、トリオがまさにそれを表していることは、みなさんも本編を通ればなんとなく察することと思います。
そして、一時的にカッパになったにせよ、彼らは紛れもなく人間で、これからも人間として生きて行きます。

ではレオマブはというと、彼らは小説などのエピソードを加味してもお互いの世界に2人しかいないですね。
それに、本編では死んだはずが、復活も果たしました。カッパだと自分から名乗って居たからという理由だけでなく、彼らは人間とは違う存在であると明確に描写されています。(誓兄さんが生き返らなかったのは彼が人間だと
示しているという事でもあると思われます。)

人間は三人結合でいなければいけないのです。

しかし、レオマブは人間でないが故に、2人のつながり、二人結合でも本人達的には存在的には実は問題がないのです。(二人結合で生きているから人間ではない、という順番かもしれませんが…。)

そして、そこに、11皿で彼らがケッピの臣下として復活した理由らしきものも見出せます。

ここからは、参考文献の通り、3人のつながりを「三人結合」2人のつながりを「二人結合」として話を進めます。

三人結合=中学生トリオ(一稀、悠、燕太)
二人結合=レオマブ


2人しか人間がいないと、お互いの心の内容しかなく、「俺と真武」みたいな存在の認識はできても、独立の「レオマブ」というものがリアリティのあるものにならないという事です。(俺たちレオマブ!と二次創作で名乗るのとは違います)
作中で言われている、生きていて死んでいる状態がこれに当たるのかもしれません。3人いないとダメだと言うことですが、実はそれを3人目の人間以外で埋め合わせることもでき、それを「相互作用における形式」といいます。(なんやっそら
「相互作用における形式」がなんなのかは説明するうちになんとなく分かっていくように書きますがレオマブでいうならば、相互作用における形式=カッパ王国時代のケッピです。
王国が成立し、ケッピも健在の状態でいた時のレオマブは軍人ではありながらも平和に暮らしていたことが、所々の描写から読み取れますが、ケッピ(二人を取り持つ相互作用における形式)の喪失と共に王国もカワウソ帝国に攻め入られ、壊滅します。
これは明言されているわけではありませんが、レオマブの存在の状態とリンクしているとここでは捉えます。(二人の存在を取り持つ役割の)ケッピがいたことで三人結合が保たれていた王国が崩壊したのですから。

相互作用における形式とは世界に存在するためのシステムです。
抽象的な概念で少し難しいですが、2人以外の超生命体です。
超生命体というと宇宙人みたいなあやしい響きですが、三人結合をしている人間でいうところの3人目の人間にあたります。(一稀・燕太にとっての悠)

レオマブは三人結合ではなく二人結合ですが、世界に存在できています。
レオマブを存在させるものが、3人目の人間の代わりにあるからです。
それが、当事者同士のお互いの心の内容とは独立にある形式「相互作用における形式」です。


そしてレオマブの「相互作用における形式」は変化していきます。
王国時代はケッピ、川嘘交番時代はカワウソ(機械の心臓)
(スピンオフの赤子のサラちゃんは3人目として加えて三人結合してると考えてもいいと思うのですがスピンオフのタイトルがふたりはさらざんまいなのでスピンオフでもレオマブは二人結合のようです)

ここまでくると、レオマブは二人結合でも生きていけるけど、3人目の代わりとなる「相互作用における形式」が誰なのかによって、幸福度が変わってくるとも言えそうです。


レオマブ(二人結合)ということは玲央も真武もそれぞれ、レオマブが2人だけの関係である以上、「俺と真武」「俺と玲央」とは独立の自分から独立していると感じるような「俺たち」「レオマブ」(超個人的生命体)は存在しない、ということです。


しかし、この時点であのレオマブは別の「相互作用における形式」が生まれておりそれがカワウソ(=真武の機械の心臓)にあたります。
「相互作用における形式」は存在を成り立たせる作用は果たしますが、幸せにする役割はないので、カワウソによって取り持たれた関係は成立しているものの、玲央の言うように「甘い地獄」を体現したような状態でした。
レオマブがもう一度笑顔で繋がるためには、幸か不幸か一度死ぬ必要があったのです。

悲しい最後を迎えた警官のレオマブでしたが、すぐに復活を果たしケッピという王の元で家臣として関係を再構築します。


”あるとき人々が集まって食事をしている。そうしたら、皿が落ちて割れた。
よく見たら、割れた欠片の数と人数がちょうど同じだった。それで、それぞれの人が皿の欠片を一つずつもとうではないか、ということになった。それをもって「壊れた皿の結社」を作ろうというわけです。〜あるとき、皿をもっている大澤が死んでしまった。そこで、大澤がもっていた欠片を山田くんが自分の欠片に接着剤でくっつける。次に井上さんが死んでしまったら、その欠片も山田くんが自分の文にくっつける。
このように、誰かが亡くなるたびに一つずつ欠片を結合していくと、だんだん皿が組み立てられていきます。
そして、最後に山田くんも死ぬわけです。その瞬間に、結社もなくなります。”

皿、というモチーフの話が登場するのも偶然だとは思いますが興味深い話なので同著の小話より引用しました。

破片を持っていた全員が死ぬ度くっつけていって誰もいなくなった時、その出来上がった皿を観測する超越者「相互作用における形式」がいないのでたくさん人数がいようが二人結合の集合体でしかなく、個人の生を超えた生命を持たない「壊れた皿の結社」=「いずれ死ぬ団体」です。
この話にあてはまるのが、カワウソ長官が言っていた「もともと壊れていたから容易かった」レオマブ、つまり、川嘘交番時代のレオマブであるといえる…と考えて見てはどうでしょうか。
あの2人は昔の状態を取り戻そうと2人がそれぞれ思う記憶の断片を集めて修復していた姿がまるで「壊れた皿の結社」を作る話のように思えて来ないでしょうか。
あの本編でもがき苦しんだレオマブは二人結合を繰り返していた状態であり、「いずれ死ぬ団体」で行き着く先は存在の死しかなかったわけです。そう思うと少し辻褄が会う気がしないでしょうか。

ではなぜ状況は一変したか、偶然かこれも何かの示唆なのか、10皿でケッピとレオマブ達が再会を果たすことができたからです。※3ケッピの目から見た「レオマブ」という高次の統一体が存在し始めるのです。
3番目の次元が入った時に玲央と真武のどちらの当事者でもない”社会”が再び宿るのです。

ケッピは王なのでここでは代替わりすればずっと続く=死なない王、永遠の視点を持ちます。
象徴的な解釈になりますが、レオマブが直前にケッピと再会したことで王と家臣というアイデンティティが戻っていて、王の元で家臣のレオマブは悲劇的な生を終えた後に復活し完全にケッピを「相互作用における形式」とした二人結合に戻ることができた、ということではないでしょうか。

王と家臣という象徴が復活した以上、これからのレオマブはまた平和を取り戻し、王国も少しずつ復興していくと考えることができ、レオマブ大好きオタク的にハッピーな解釈へ行き着くことができたのではないでしょうか。


レオマブがいて、そのレオマブだけだったら「壊れた皿の結社」になりますが、彼らの王ケッピ(王子と言ってますが実質的には王です)がいる家臣のレオマブは死んでしまいますが、王(3人目)との関係でレオマブは家臣としてアイデンティティを得ているので超生命体としての結合は残ります。(レオマブのギメルリングがそれです)彼らはおそらく今までも結合が残ることで何度も復活を果たし存在し続けることができています。
彼らが何平安装束を着て居たり、大正時代に生きていたり…何百年も存在していそうな描写があるのはこのためかも・・・


相互作用の形式というのは、レオマブを二人結合にしているものです。
ケッピであったり、真武を生かすためにある機械の心臓であったりします
レオマブは2人の世界ですが、それを成立させる舞台装置が必ず外部にあるという事です。
二人結合を行なっている時、真武が心臓によって自分の生命力以外で生かされている時、実際に3番目の人が居なくても潜在的に三者結合であるために、現し身のカワウソがいるのです。

最後に、完全ガイドブックによると最終話でのレオマブの登場は公式的にはサプライズのような形であったと言及されていますが、この文章ではあえてスタッフの思惑を深読みし、独自に解釈しようと試みるものです。公式ではサプライズでも、意味を見出し新たな価値を作って行くことはどこまでも自由なはずです。(つまり公式に反発の意味ではありません)


この記事の主はレオマブがより唯一無二の存在としてあってほしいと願っているので同志の方がこういった解釈を見て、レオマブが人間の倫理観や価値観を超えた存在であると感じられるような解釈が書けていたら幸いです。

嬉しいことに、私のツイートからこの本の購入に至り、読んでみたという報告と、解釈が難しいので解説が見たいというリクエストをDMからいただきました、私でもツイートしたことを忘れかけていたのですが、DMをいただいて引用部分を読み返して見たところ以前より思考が整理されて説明できる気がしたのでnoteにしました。

※1さらざんまいを深く考える時、社会学をツールとして使うのはモチーフとしての示唆が明らかだからです。が、他にも用いることのできる分野はあります。
「つながり」などは社会学のテーマとしてわかりやすいもの、ゾンビがえんの外側へ弾かれる時のラカンのボロメオの環を思わせる環などは精神分析学

※2ご興味のある方は『ジンメル・つながりの社会学』(菅野仁 著)もさらざんまいのモチーフを関連性が高く、興味深くお読みいただけると思います。『橋と扉』の話は吾妻橋とメンテ会場へ接続していた交番の扉への考えがより深まります。こちらも時間があれば解説を試みたいと考えています。


※3ここまで話すと、レオマブは実は復活できないルートもあったのではないでしょうか。ケッピと再会できないルートです。レオマブが2人で死ぬか、人間の資源を刈り尽くして自死を待つルートと考えるとレオマブが2人で死ぬか、人間の資源を刈り尽くして自死を待つルートと考ると
辛いとは言え本編が最善の突破口だったのかも。


参考文献

『さらざんまい 公式完全ガイドブック』
『社会学史』大澤真幸
『ジンメル・つながりの哲学』菅野仁

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