【エッセイ】僕は今戦っていない

 小学二年生の秋、僕は地元のサッカー少年団に所属した。今ではLINEで話すこともなくなった当時の近所の友達が、僕を誘ったのがきっかけだった。

 僕の両親は、やや肥満気味だった僕を若干心配していたようで、その誘いに対して積極的だった。特に母親の提案を断ることが当時はできず、サッカーなんてなんとも思ったことがなかったが、とりあえず見学に行った。
 見学だけのつもりだったので、トレーナーにデニムに俊足という舐めきった格好で行ったのだが、ノリの良いコーチが、
「よかったらちょっとミニゲーム(小さなコートで行う試合)入ったら?」
と言うので、僕はまた断れず、参加した。動きにくかった。肥満気味だった僕は、いわゆる”バック”というポジションに追いやられた。これはディフェンダーのことで、つまり自陣のゴールを守る役割である。僕は何が何やらわからなかったが、ボールを小刻みに蹴って近づいてくる相手を止めることが何度かできた。このわずかな成功体験が強く心に残り、僕は少年団に入る決断をした。

 そして定期的に練習をするようになった。やるうちにわかっていったことだが、僕はそこそこ運動神経がよかった。走りこそ遅かったものの体の使い方は下手ではなく、すぐにある程度ボールを操れるようになった。そして、4年生になると大きめの大会にも出た。
 ようやくこの頃になって、僕は周りと自分との小さな差に気づいた。僕は、試合に負けても泣かなかったのだ。なぜだか涙が出なかった。チームメイトやコーチが泣いているのに感化されて泣くことはあっても、自分から悔しさや辛さで泣くことはなかった。なぜ泣かないのか、当時はわからなかったが、今考えてみると、おそらくチームとしての負けを自分事から切り離して考えていたのだと思う。自分が何度いいプレーができたかばかり気にしていて、勝ち負けにそれほど関心がなかったのだろう。しかし、また僕はあることに気づく。練習日に行う紅白戦での勝ち負けに、僕は過剰に反応していたのだ。負けると人一倍悔しがり、勝つと人一倍喜んだ。本番の試合と紅白戦で何が違ったのか。答えは単純で、自分への評価にどれくらい負の影響があるか、であった。紅白戦は主に、次の試合で誰を先発で出すかを決めるための材料として、コーチが組むものだった。そこではもちろん一人一人のパフォーマンスが見られるが、それは僕にとってみれば、まだ先発のメンバーが決まっていないから、失うものがない、という状況であった。その状況において僕は、自由に、安心してプレーすることができたし、勝敗にも一喜一憂できたというわけだ。一方で、本番の試合は、自分が先発として出る。この時僕にとって重要なのは、試合の勝ち負けではなく、自分がいかに少ないミスで抑え、いかに多く好プレーを出し、そしていかにこの先発のメンバーに残るかという点であった。そんな状況の中で僕が感じていたのは、ミスへの恐怖とプレッシャーだった。結果としての勝ち負けはどうでもよく、自分の評価が下がらないことだけを重視していたというわけだ。だから僕は、勝ち負けで涙を流さなかった。

 このことを思い出すと同時に、僕はいつも一つの問いを頭に浮かべる。それは、今自分は何と戦っているのだろうか、という問いだ。紅白戦では、僕は相手チームと戦っていた。自分のチームと相手のチームとの間に生まれる、「勝ちー負け」という関係(結果)を重要視していた。一方で本番の試合では、自分のプレーとコーチの評価との間に生まれる「良しー悪し」とい関係(結果)を重要視していた。
 そして社会を目の前にした大学生の僕は今、僕と社会との間にどのような関係(結果)が生まれるのかを考えている。例えば僕の人生と社会との間に生まれるのは、「被保護ー保護」という関係だろうか。それとも単に、「個体ー全体」という関係だろうか。
 このように考えると、僕は今、何とも戦っていないような気がしてくる。僕は当時、相手のチームやコーチの評価と、少なくとも戦ってはいた。しかし今僕は、戦うという事象が起こるのに不可欠な「相手」を欠いているのだ。だから僕は今きっと、戦ってない。

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