どんな気持ちで創作しているか(2022.8.2最終更新)

0:最近の創作のテーマ


ここ最近の創作のテーマは、「潜在意識の表出」である。

1:これまでの「潜在意識と人間」


人間の潜在意識はこれまで、夢や孤独で純粋な夢想において、部分的に※表出 し得るとされてきた、と私は見ている。
しかしながら、それは自己完結的で、客観的に観測可能なものに変換することができずにいた(=客観的観測不可能性があった)だろう。

端的に述べれば、私の創作の目的は「夢をはじめとするPESのOUを克服すること」である。(待って!ちゃんと説明するから!)

ここからの議論のためにまずは、「既存の『潜在意識の部分的な表出(Partial Expression of Subconsious:PES)』の諸形態の『客観的観測不可能性(Objective Unobservability:OU)』」についての解説をしてみたい。

※ここでの「表出」は心理学的な専門用語ではなく、単純に「内にある・あった物が外に出て現れること」の意味で使用し、本文では特に、「”イメージとして”現れること」を指す。

2:PESのOUについて

(用語が長いので英語のイニシャルをとって簡略化したが、それによって何のこっちゃわからない章題になってしまった。まぁいいや。ごめんなさい。)

PESの一形態である「夢」を例に挙げて説明してみる。
夢を見ることができるのは当人だけである、という事実から自明だが、普通、夢は他人と共有し得ない。すなわち、夢はOUを持つと言える。

反論

これに対し、

「夢日記書いて見せれば、共有できるじゃん!」

という反論が予想できるので、さらにそれに対する反論を述べる。

反論に対する反論

夢日記の場合は、当人が夢を観測してから記録するまでに時間差が生じてしまう。これにより、観測した夢の内容の記憶が記録をする頃には曖昧になり、実際の内容と異なる記録がされてしまう可能性が高い。
また、夢は往々にして映像的か、断続的な画像のような形式をとる。これを日記にする際、文字の形式に変換される必要がある。形式の変換が内容の変容を引き起こすことは、想像に容易い。
したがって、夢日記は夢を客観的に観測可能なものにする方法としては不十分であると言える。
(もしも『パプリカ』のDCミニのようなものが現実の世界にあればひとまず夢のOUは解決されそうだが、DCミニはフィクションである。)

夢以外にもPESの形態はあるが、それらの観測はやはり主観的であり、ゆえに観測した内容は往々にしてOUを抱えることになる。

3:PESのOUを克服するには

前章の議論から、PESのOUの克服を試みる上で「観測と記録の間に時間差があってはいけない」「PESの形式と記録の形式が異なってはいけない」という、重要かつ厳格な二つのルールがあることが確認できた。

ではどうすれば克服できるのか。
二つのルールを同時に満たす克服方法は、たった一つに決まると私は結論づける。

それは、記録と観測を同時に行うことである。

元来、観察と記録には時間的な前後関係がある。言うまでもないが、観測が記録に先立つわけだ。
しかし私は、この前後関係を脱却することは可能だと考える。

いささか単純すぎるようにも見えるこの方法について説明する前に、ある言葉を紹介したい。「自動記述法」というものだ。

自動記述法
=文章記述の方法論の名称。
記述プロセスから理性の働きを排除し、純粋に感性のみの働きによって文章を記述するという方法を指す。シュールレアリズム運動の産物。

筆者による解釈。気になったらこちら

結論から言えば、
この自動記述法を描画に応用することによって、PESのOUを克服できる
と私は考えている。

しかし、この方面に明るい方ならばご存知だろうが、実は絵画の自動記述は不可能だという言説が支配的であるようだ。絵画を描く際には必ず理性が働くため、純粋な自動記述にはなり得ないという主張である(支持者はピエール・ナヴィルが有名)。

さて、私はこの支配的な言説を信じていない。信じるに足る根拠がない。
おもむろに絵筆を持ち上げ、無心でアクリルガッシュをパレットに移し、目の前のキャンバスに絵筆を使ってアクリルガッシュを塗布する。このプロセスに、理性的な情報処理が入り込む必然性はあるだろうか?いや、ない。
そして、理性を排除した描画によって完成する絵画はすなわち、OUを持たないPES=「客観的に観測可能な潜在意識の部分的な表出」以外の何でもないのである。

小括

以上に紹介したプロセス、いわば「ただ描くこと」によって、自分の潜在意識を表出させると同時に正確に記録し、客観的に観測可能なものに昇華させる、という試みーすなわち描画によるPESのOUの克服ーが、私のここ最近の創作のテーマである。

4:なぜ文章の自動記述ではなく絵画の自動記述なのか?

文章がやや長くなってきた。ここまで読んでくれている方は、「わざわざ絵じゃなくても、文章書けばいいじゃん」と思った素直な人か、「袖浦が必死こいて書いたものだったらば全部読んでやろう」という心優しい人のどちらかだろう。
この章は前者の疑問に答えるための章だと思ってもらいたい。

さて、わざわざ絵を描こうとしているのは、私がむしろ文章の自動記述に対して不完全さを感じていることに起因する。

文章の自動記述の不完全さ

文章の自動記述の不完全さを説明するにあたり、文章が単語を並べたものであることを踏まえ、まず単語の性質について考える。

ここでは、単語がカント哲学でいう「表象」、ジョンロックの哲学でいう「観念」の名称であると考える。であればそれは、感覚的なイメージ(「白い」とか、「熱い」とか、「うるさい」とか、「揺れる」とか、「生臭い」とか)の名称かあるいは概念(「価値」とか、「精神」とか)の名称のどちらかであると考えられる。

さて、該当の単語がどちらの名称であるかに関わらず、その単語を書く際には、その単語が示す内容と自分が指し示したい表象(あるいは観念)が一致しているかの判断が行われているのは、容易に想像できるはずだ。その判断なしには、文章は成立し得ないだろう。

そしてこの判断こそ、極めて理性的なものに思えてならないものであり、文章の自動記述の不完全さの原因である、と私は考えるのだ。

以上が、私が文章ではなく絵画を描く理由だ。

5:とは言ったものの...

私は創作の中で、文章も書く。それも、PESのOUを克服したいがために、だ。

なんで文章書くの!? マヂ意味不!

これまでのいくつかの章で、まるで絵画がPESのOU克服のための完全無欠の方法であるかのように述べたことを、まず詫びたい。章題の問いに答えるならば、文章の自動記述と同様、「ただ描くこと」も決して完全ではないからだ。

「ただ描くこと」の不完全さ

まず、「完全なPESの記録」の定義を確認しておきたい。

完全なPESの記録
=潜在意識を余すことなく全て表出させ、それらを全て正確に記録すること。

ここで、2章の議論で確認した二つのルールを思い出して欲しい。

1.観測と記録の間に時間差があってはいけない
2.PESの形式と記録の形式が異なってはいけない

絵画の重大な欠陥は、二つ目のルールに関わる。

絵画の形式を取らない潜在意識を表出させることができないことだ(これは、文章の自動記述の欠陥としても挙げられる)。

理想的なPESの記録方法

潜在意識の形式は実に多様だと思われる。とすれば、その表出の形式も多様だと考えるのが妥当である。
こうなると、記録の方法も同様に多様でなければならない。これが「PESの記録を絵画だけに頼らない」理由、すなわち文章も書く理由である。

6:さいごに

期末レポートの提出に追われている身としてはいささか時間をかけすぎましたが、以上が私の最近の創作に関する色々でした。
長々と読んでくださり、ありがとうございました。

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