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【散文】斫り

 工事の音がうるさいが、俺は薄暗い路地を歩く。だらしなく歩く。両耳に挿した線のないイヤホンからは、流行りのJ-Popが流れている。映画のエンドロールに果てがあるように、退屈な俺の人生にもいつか終わりが来る。そのことを噛み締めてニヤリと笑い、俺はまだこの暗くてうるさい路地をのろりと歩き続ける。

 俺は何も為せず、二十一歳を持て余していた。そして同時に、健康に憧れながら不健康を謳歌していた。俺は過度のストレスで円形脱毛症をはじめとする様々な病気を患っていた。

 こんな夜に、惰性でこの世の終わりを唄うホットパンツの女に痴漢されたら、どんなに快いだろうか。その女はきっと背が高くて脚は長く、胸が大きくて腹は細い。そして、声はしゃがれている。醜くてやや美しいこの世の全てを背負った声をしている。しかし実際は、俺は一人でこの路地を歩く。耳に挿したイヤホンからは、別の曲が流れている。その曲もまた、耳に心地いい流行りのJ-Popだった。

 剥がれた瘡蓋に塩を塗るときに痛むのと同じような痛みが、全身を襲う。医者はこの痛みは幻覚だと言っていた。物理的な刺激はないと言った。色々な機械を使って検査したのだから、本当だろう。しかし、痛みが幻覚か現実のものかなど、本当にどうでもいいことだ。痛いと感じればそれは真に痛みなのだから、検査代は無駄に思えた。ふと、何の工事が行われているのかが気になった。あまりにもうるさい斫りだから、大工の腕が悪いのかもしれないとも思った。その時、フェンスの奥に、うっすらと人の影が見えた。その影はただ突っ立っているだけで、何者か全くわからない。こちらを見ているように見えるから、工事関係者ではないのだろう。その影は徐々にこちらに近づいてきた。気がつくと、もう目の前にいた。俺の数センチ先にそれはいた。
「お前は、死ぬ、今、ここで。」
やけに俺と似た声でそれはそう言い、直後、ものすごい速さで走り出した。そしてそのまま、たてかかっていた鉄骨に衝突して、鈍い音を響かせた。初めてみる自殺だった。頭部からだらだらと血が流れ始めていた。斫りの音が少し小さくなったようだ。俺はそれだけでやや気分が良くなった。フェンスの奥で起きた今の一連の出来事は、俺を揺さぶった。今死んだのは紛れもなく俺だった。このまま俺は、あのように死ぬのだろうか。俯く。いや、と一人で首を振る。死ぬならもっと安らかに死にたい。木陰で眠りながら、死にたい。

 そんな夢想にふけり何十分か経って、俺はおや、と首を上げる。気分が悪い。そういえばまた斫りの音が大きくなった。どうやらフェンスの向こうに男がいるようだ。じっと見つめていると、それはフェンスに近づいてくる。俺は素早くそれに近づく。
「お前は、死ぬ、今、ここで。」
そういうとなぜか、今すぐ走り出したくなるのだった。

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