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カラオケアフターエッセイ

1. 人間同士は全く分かり合えない、この寂しさ

僕たち人間は、日々さまざまな情報を交換しあっている。

家ではLINEでメッセージを送り合い、Twitterでつぶやきを覗き見し合い、いざ対面すれば会話をし、目線を送り合い、身振り手振りで気持ちを表現し、あるいは路上で歌を歌ったり、絵を展示したり、小説を書いたり、とにかく多様な情報を交換しあっている。

そして僕たちはここで受け取った情報をもとに、その人が何を考えているか、何を思ったか、何をしたいか、したくないか、などを理解しようとする。そしてあろうことか、まるで理解した気になり、共感をすることすらある。

しかしながら、「当人の考えや気持ち」と「言動」が因果関係にあるという根拠は、極論を言えば皆無なのである。

例えば、「ケーキが好きだ」という発言は、その人がケーキを好きであるか否かという問題と、無関係であるということだ。

なぜそう言えるのか。

まず、発言者が嘘をついている可能性を考慮する。そこに嘘をつく意味やメリットがあるかどうかはこの際重要ではなく、あくまでその可能性があることだけを確認したい。

嘘をついていた場合、発言と当人の実際の考えが異なるということになる。

そして次に、受言者と発言者の間で言葉の定義や意味が一致していない可能性を考慮する。「ケーキ」と「好き」のこの二つの言葉の意味が両者の間で完全に一致していなければ、仮に発言が本当だったとしても、受言者は「発言者は何が好きなのか」、あるいは「発言者はケーキをどう思っているのか」、あるいは「発言者が何をどう思っているのか」を理解できていないということになる。

さて、例に挙げた短くてシンプルな発言ですら、受言者はそれをもとに発言者の考えを理解することができなかったわけだが、僕たちは普段、もっと長くて複雑な発言をしている。これを理解するということがいかに突拍子のないことか、想像に易いだろう。

だから今僕がここまで書いてきたことも、閲覧者がこれをどれくらい理解するか、ということを考えれば、「うんち!」と言っているのとそう変わらないのである。

2. シュルレアリスムについて

最近はシュルレアリスムについてよく調べたり考えたりしている。

シュルレアリスムとは、人間を経験やそれによって獲得された理性から解放しようという思想をエンジンに展開された、芸術・政治運動である。

僕は最近ニヒリズムに傾倒しつつあることを自覚しているのだが、そんな僕がシュルレアリスムに興味をもったのはおおむね自然なことだろう。

シュルレアリスムは、僕の考えによれば、

「過去を放棄し、影のように付いてくる理性を切り落とし、全てから独立した精神を取り戻し、その活動を表出させる試み」

なのであるが、これはニヒリズムの精神とよく似ていると思う。(実際、シュルレアリストの一人であったジョルジョ・デ・キリコの『形而上絵画』は確実にニーチェニヒリズムの影響を受けている。(この論文に詳細あり))

1. で話したこととも繋がってくるのだが、社会で生きているのにも関わらず他者と一切の相互理解ができない現状は、極めてナンセンス(non-sens)だと僕も思う。であれば何に生を見出すのか。例えばそれは歴史の否定であった。ホモ・サピエンスという歴史が築いてきた理性の城を、シュルレアリスムは否定する。そして、「極めて動物的な潜在意識を、此処に召喚せん」と、徐に自動記述を行う。しかしながらその野生的な書き取りすらも、言葉という文明、言語使用という理性を拝借してしまうことで、まるで退屈なものになっていると僕は思う。哀しい話ですね。

だが、その精神には大きな関心がある。

3. 深夜にカラオケで爆唱して、巨大な破壊衝動に駆られた話

僕は全てを否定し、全てを許容することで、絶対的に浮遊したいと思っている。

でもそれができないのに嫌気が差して、陳腐な破壊衝動を慢性的に心に抱き抱えているのだ。

それが顕在化するのは、物理的にシャウトした時が多い。

一人でカラオケに言って歌を思い切り歌うと、普段は重箱にしまってあるその陳腐な破壊衝動が、扉を開けて飛び出してくる。

しかし。

僕は少し強いので、その破壊衝動をバーチャルな表現活動として昇華させることができる。

それがこれです。

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