ハウスクラシックを聴いて、天宮志龍のこと、あれやこれやと思い出してみた
ネットのない時代のフォークロア をあれやこれやと綴ろうと思うって、色々と書き始めたけれど、天宮志龍とのあれやこれやは、全てインフォメーションテクノロジーや●G といった世界とはスーパーかけ離れた世界だったのかもしれない。
世の中が、ニューヨークではパラダイスガラージ、シカゴでウエアハウス、デトロイトではミュージックインスティチュートでテクノが萌芽し大きな花となる、そんな時期、いわゆるエレクトロファンクと、世界のリズムを融合させたようなそんな音楽を僕はスピーキングファニチャーで創っていた。そんな86~89年の4年間、川崎倉庫でのライブから、天宮とはなぜか接点がなかった。ところが、90年天宮とはまた、ドッカーンと一緒に活動することになる。
大学を卒業して、まんまと就職するのだが東京に行くのもなんだかなあと、大学4回生の時にシティマニュアルという関西発、街の情報誌を編集していた神戸新聞マーケティングセンターのメンバーが、京阪神エルマガジン社に転籍して新しい雑誌を創刊するという。そこに潜り込むように就職したのだ。
その雑誌は、Meets Regional.
プレ号ということで、2号シティマニュアルの編集に関わったが、いざ創刊という時にカルチャーインフォメーションマガジンのエルマガジンの音楽担当だったW坂さんという名物編集者が辞めるということで、エルマガジンの音楽担当というポジションへ。
音楽屋崩れの自分にとって、まさにうってつけ。ではあるが、編集者という人生を歩もうと音楽や、踊りのことは大学卒業とともに引き出しの奥にしまったのであったんだが、、、。
86~89年の4年間に 培ってきたネットワークがここで 一気に結びつき始める。京都では、出町柳にあった頃のロフトマンや、太郎さんのNOISE などを中心にロンドンでセカンド サマー オブ ラブの洗礼を受けてきた連中が、アシッドジャズやネオアコのテイストを持ち込んで活動を始め出す。結構軸足はそういった京都の仲間だんたんだけれど、大阪は大阪でまた、独特というか、かなりシカゴハウスやNYのパエアダイスガラージに影響を受けたDJや、レゲエ・クラシックからの流れもあるけレド、サウンドシステムを全面に押し出したダンスホールレゲエ勢が幅を利かしていた。
で、そんなこんないっている時代に 僕が得意にしていたというか世の中のブームの端っこに乗っかっていたのが、ワールドミュージックだった。
トーキング.ヘッズのデヴィッド・バーンが監修したブラジル音楽のコンピレーションがリリースされたり、ニューウエーブのちょっとダークなサウンド 推しレーベル4ADから、ブルガリア少女(おばさんのメンバーも結構いたけれど)の合唱を集めたアルバムがリリースされたりして、ちょっとなんか 世の中にはビルボードのチャートには全く関係ないけれど、おしゃれでポップな音楽が実はいっぱいあるんじゃないか? と ちょっとそわそわしていた。
そんなタイミングで、ジプシー・キングスが来日する。
スペインのポップスというくらいの認識でフォノグラムからリリースされていた彼らが、エピックとワールドワイドで契約し、新しいアルバムをリリースする。で、日本のエピックがジプシー・キングスを呼ぶ。前座がボ・ガンボスだった記憶もある。そのバックステージでエピックの洋楽担当@関西のKさんに紹介されたのが、なんと志狼ちゃんだった!
ということで、まあQOOの話や、NYの話 いやはや エクスタシーボーイズかな、、、などなど これから色々 また 書いていきたいと思う
ひとまず、90年代 突入!!!!
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