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ライフストーリー#3 13~18歳

へろう。
早くもライフストーリーは中高時代に突入した。僕が最も避けたい話題の一つでもあり、かつ、それだけ避けては通れない年代でもある。
暗く、ねっとりとしたものが思い出に付着している感じだ。

第一回のライフストーリーでも書いているように、なるべく明るく書こうとか、そういう手抜きもしたくないので包み隠さず記載する。
ここまでのライフストーリーは以下から参照できる。


#3  13歳〜18歳 落ちていく。

小学生の時に調子に乗りまくっていた僕は、中学校に入って世界の広がりに絶望する事になる。
よくある話だと思う。それまで自分が優れていたと思っていたものが、環境が変わって自分より勝る人が出てきてしまうということは。

野球も、陸上も、音楽も、発信力でさえ、僕は誰よりも劣っているように感じた。

元々何か一つのものを突き詰めず、それなりの成果で満足している人間だから、自分の軸となるものが何もなかった。

そう気付いた時、何もかもがつまらなく感じた。
どれだけ要領よくやっても、人並みくらいの成果しか出せなくなっていたからだ。

こういう時、一念発起して何かに取り組めたら良かったのだが、僕はその何かを見つけられなかった。
結局、それなりのことをして満足するよう自分に言い聞かせるに終わる日々だ。

入学式の日、中学1年生の担任に「君はリーダーシップがあると小学校の担任から聞いています。クラス委員をやってみない?」と声をかけられたのをきっかけに、僕は中学3年間ずっとクラス委員をやっていた。
僕を推してくれた小学校の担任は僕をよく贔屓する人で、こういう公平性に欠くことをどうなのかと思うが、その人のおかげでクラス委員をやれたのもまた事実だ。そこは感謝をしている。

僕にとってクラス委員は中学時代に唯一やり切ったものと自信を持って言える。
そう、僕はクラス委員を続けることで自分の軸としようとしていたのだ。
何とも子供である。

クラス委員としての大きな目標があるわけではなく、ただ作業をこなすだけの日々だった。それでも、その地位に満足しようとしていた。
人から与えられた名前や役職に、こんなにも自分の想いが乗らないとは思わなかった。

あと思春期ということもあり、肌も荒れた。色々気を使って洗顔をしたり、皮膚科に行ってもニキビが出続ける状態で、小学校でかっこいいと言われ調子に乗っていた僕は自分の外見が嫌いになった。何より認めたくなかった。
自分が中学校の中で一番醜いと思った。小学校の時と比較されるのが怖かった。

だから、肌荒れのことを話題に出されることすら僕は嫌だった。
嫌なのは自分が一番分かってるし、よく家で泣いていた。それでも治らない。当時の日記とか、作詞していた歌詞を見ても、「地獄」とか「死にたい」という表現をよく使っている。
当時付き合っていた彼女に肌荒れを心配され、僕はやり場のない怒りを爆発し、彼女を傷つけてしまった。最低だった。
今思えば、ただ一言、「ありがとう。でもその話はしたくない」とか言えれば良かったのに。

僕は何に対しても自信が持てず、振る舞いも変えられず、それなりのことをして、やり過ごし、そして外見は醜くなった。
下を向いて歩くことが多くなった。誰の顔も見たくなかった。顔を見るということは、顔を見られるということだから。

そんな時に、ドラムと出会った。

ドラムとの出会い。

中学1年の終わり、ゲームセンターで友達とドラムとギターのセッションが出来るゲームをやったのをきっかけに、僕はドラムをやり始めた。
僕らの学年に、ちょっとしたバンドブームが到来していた。
BUMP OF CHIKEN、RADWIMPS、ブルーハーツをコピーし、人前で演奏する機会がチラホラあった。
中学生の時は体育館、ライブバー。高校生の時は文化祭、ライブハウスでも演奏した。

自分の手で叩いて、何か1つのものがつくられていく、誰かに受け取ってもらえる感覚というのが新鮮だった。
もっと色々な曲を叩いて、人に見てもらいたいという想いから、高校生の時に自分のドラム演奏動画を上げるためのYouTubeチャネルをつくった。自分の演奏動画を撮り、MTRをエレキドラムに直結させて音を録って原曲とミックスをし、PCで動画編集もした。今でこそYoutuberは一般的になったが、この当時はまだまだ限られた人たちだけだった。
「演奏してみた」系の動画というのは、当時の僕のように自分で録音から編集、そしてアップロードまで一人でやってしまう人も多く(というか、この一連の作業で自分のこだわりを動画に載せるのである)、我ながらあの頃はYoutuberだったなと思う。

ドラムを叩いている時の僕はものすごい集中力だった。
少しでも意識が逸れると、全てリズムに影響が出るのだ。自分の全てを持って演奏している感覚が心地良い。
他の人には分からないようなミスも僕にとってはとんでもなく大きなミスだったりする。

だから、こだわった。僕は、ドラムだけは自分のこだわりで突き詰められた。

ドラムの演奏なんて、誰かに点数付けされるわけではないし、いつものようにそれなりの演奏で終わらせられることが出来たはずだった。
だけど、ダメだった。というか、僕は知ってしまったのだ。

自分がこだわり抜いたものを認められた時、僕は生きている感じがした。

僕にとってドラムは自分の中で何かを目覚めさせる、気づかせてくれるものになった。
「他がダメでもいい。それでも俺にはドラムがある」そう思えた。

思えば、僕の右脳的な志向性が開花したのも、つまり芸術や文化にことさら興味を持ち始めたのもこの時期である。
自分で詩や小説を書いたり、カメラでたまに遊んだり、歌を歌ったり…。
自分が映画監督になりきって演出を考えたり…。

「計算できる世界じゃなくて、想像できる世界を」
「言葉を超えた感動を求める」

そんな価値観がこの期間に下地として身についていた気がする。

そうしていくうちに高校を卒業した。

ライフストーリー#4へ続く。

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