見出し画像

金魚を移す仕事あるいは猫について

昔、取材先で伺った話。
そこでは魚の養殖をしていた。食用ではなく、専門は観賞用の金魚だった。
大きな(25Mプールくらいより少し小さいくらい?)の「いけす」が複数並び、それぞれに高価な金魚が何千匹も泳いでいた、と記憶している。昔のことなので記憶が曖昧だ。
水のにおい、淡水魚の独特のにおいがした。

「大きさによって、移すんですよ」
取材に対応していた係の人が言った。もちろん金魚の話だ。
「金魚を、どうやって移動させるんですか?」
私は聞いた。どうやって、というのは、いつも取材の肝だ。
手段はいくらでも考えられる(例えば隣り合ったいけすには穴が空いていてそこへ金魚を追い込むとか、1匹1匹サオで釣り上げるとか、地引き網のような方法とか、いけすの水を抜いてさらうとか)し、プロは必ずなんらかの工夫をしている。面白い話が聞けるところだ。
「ああ、網ですくって、ですね」
網と言っても色々ある。
「大きな網で、ざばあっ、と?」
「いえいえ、そうすると金魚が傷ついてしまうので、小さな網で丁寧に1匹ずつ移動させるんですよ」
「1匹ずつ? だって何千匹もいますよね?」
「中に柵を作って、いけすをだんだんに狭めていくんですよ」
「狭めて、すくうんですか?」
「そうです。小さな網で、傷つけないよう、やさしく丁寧に」
高級金魚は些細な傷で価値を失う。だから手作業に頼るのだという。
「どのくらい時間が掛かるんですか?」
「丸1日は掛かりますよ」
「ほえー、丸1日」
変な感嘆詞が出た。
夜店で遊ぶ金魚すくいは楽しいが、それが仕事になったらどうだろう。高級金魚の鱗を傷つけないように、小さな網を持って、朝から夕方まで金魚を右から左へ移すだけの仕事。それは、なんというか、石を積んでは積み上がるところで突き崩される、賽の河原を私に想像させた。
「なんというか、大変なお仕事ですね?」
「大変と言えば大変ですが、向いている人がいるんです」
毎日、決められた時間、決められた仕事、それだけを丁寧に行ってくれる。あるタイプの人達にとても助けられているのだ、と係の人は言っていた。
ここまでが私の記憶のはなし。

ここからが私の創作。
水面がキラキラ輝いている。水は透明だと言うが嘘だ、と彼は思う。
日陰の水は緑、涼しげなエメラルドの色。日を浴びている部分は甘そうにとろっとして見える。いろんな色の水の中を、金魚たちは赤い背中を誇らしげに見せてスイスイと動き回っている。刻々と変わる色と光と動き。
彼は1匹を見ながら網を入れる。そのまま少し待つと入り込んでくる。赤い影を確認しながらすうっと網を動かす、こわくないよ、別のお池に移動するだけだよ。心で声を掛けて、水面から持ち上げる。その一瞬、金魚が抵抗して動く。命そのものの重さを感じる。急いで網をバケツに置く。バケツを持ち上げ90度左を向く。隣のいけすの水の色を知覚する。こちらの方が広いよ。と心で声を掛けながら、そうっと金魚を放してやる。無事に泳ぎだした背中を確認する。うん。次。元のいけすに向き直る……
何匹か何十匹か、同じように移動させたところでサイレンが鳴り昼飯になる。弁当を食べた後、彼はまた同じように何匹か何十匹かを移動させる。やがて終業の時間になって、作業服を着替えて家に帰る。
飽きないのかと聞かれることがあっても、彼は静かに笑っている。
水の色は毎日違う、風のにおいは毎日違う、金魚だって1匹1匹違う。毎日の「違う」が、彼を楽しませている。その組み合わせは何億通りもあり、決して飽きることはない。しかし、ほとんどの人は彼が味わい楽しむ「違う」に気づかない。そして「単純労働だ、苦痛だ」という。「よくそんな仕事が出来るな」と呆れられたりもする。彼は静かに笑うしかない。

おかあさんは、よくそんなおしごとができますね。あきないのですか?
ネルは首をかしげる。
おかあさんは「お仕事」といって、部屋の画面に向かって朝から晩まで座ってカタカタ手元で言わせている。ネルが覗いてみても画面はぼうっと光って何かが並んでいるだけ。何のおもしろみもない。家の中にもっと楽しいことはたくさんあるだろうに、とネルは思う。たとえば入り込んできた虫を追いかけるとか、隅っこの埃をつついてみるとか、ネルのためにおいしい缶詰をパカッとするとか。
それに、カタカタ言わせるくらいならネルだってできる。こうすることもできますよ、とカタカタ道具の上を歩いて見せたり、そろそろわたしをなでるじかんですよ、とカタカタの上にねそべったりしてみることもある。心外なことに「じゃまよ」とどかされた。
おかあさん、カタカタいわせるおしごとはたのしいですか?
おかあさん、そんな単純なさぎょう、あきませんか?
人間って、変わってますね。
おかあさん、わたしのゴロゴロをきかせてあげましょうか?

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?