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バンドがやりたい大学生②

前回の記事バンドがやりたい大学生①の続き。もう10年以上前の記憶を辿ってその時系列を整理して書き出すのってやってみると結構大変で、記事を書き出すこのときが1番つらいのがわかってきました。
しかも今回は中盤から終盤まで書き進めていた際に1回間違って記事が消えてしまったので、皆さまにはその重みを感じて読んでいただけますと幸いです。

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大学のバンドサークル内にて結成された「Jackknife Bicycle」はギター・ドラムともに堪能な「秋田のデイブグロール」ことコンくんをギターボーカル、遅刻魔だが英語が堪能な「バガボンド」ワタナベくんをベース、そしてとくに秀でた才能がない「終身名誉モブキャラ」デマンドをドラムに据えたガレージバンドであった。

大学2年生になるころにはコンくんの優れたギタープレイとワタナベくんの存在感が徐々にサークル内で際立ちはじめていた。

外のライブハウスに出演しに行くことはほとんどなかったのだけど、毎月大学内のホールで開催されるサークルの演奏会には皆勤していた。

当時の貴重な映像

※勢い余って間奏で思いっきりズレたタイミングでシンバルを叩いてるのがデマンドです

そして秋の学園祭の日に合わせてサークル内で外部のバンドを招聘したライブイベントを開催するのが通例となっており、それが1年の集大成として位置付けられていた。

普段の演奏会(定演と呼ばれていた)では出たいバンドが出たいだけ出れるようなシステムになっていたが、この学園祭ライブは前月の定演後に部員同士の投票が行われ、その上位10バンドが出演できるようになっていた。当然3年生や4年生も本気で受かりにくるので2年生が10バンドに入るのはなかなか厳しい情勢である。

だから別にダメでもまあ仕方がないと思い、その日のライブはとくに思いっきりやった。

全曲演奏し終えた際、ステージ前方につかつか出てきた僕は、コンくんのマイクを奪いとり「ファック」と叫んだ。普段から冷ややかな目線を送り続けてくる客席が一層静まり返ったように感じた。

しかしそれが功を奏したか、なぜかオーディションに滑り込みの10位で合格した。これが「デマンドファック事件」だ。能天気な大学生がいったい何に腹を立てていたのか…詳しい動機は今となっては不明である。

オーディションの結果発表で最後に名前が読み上げられた際に出たのは、近鉄バファローズの佐々木恭介監督が1995年ドラフト会議で福留孝介を4球団のくじ引きで引き当てたときのそれをゆうに超える声量の「ヨッシャー」。初めてバンドでいい思いが出来た瞬間であった。

mixiのコミュニティーを探したら当時のフライヤーがあったので載せときます。mixiは最高のSNS。

ちなみに前年の夏レッチリのコピーバンドで日本語ボーカルを務めたマツオカがフロントマンを務めるメロディックパンクバンド「キリエ」はこのオーディションで栄えある銀メダル。本心ではこのバンドでも僕がドラムやりたいと思っていたけど、はいそうです。ドラムは我がバンドのギターヒーロー・コンくんでした。クーッ。


閉鎖的だったバンドサークル内だけの話ではあるけど、ともかく徐々に充実感を感じてバンドをやれるようになり、それ以降も「ギターヒーローがいるバンド」として幸運にもポジションをとることができた。メンバーさまさまな話である。


一方で高校の仲間である涼ちゃん、西川、多々良の4人で結成した"メロコアバンドになりたいバンド"「ROUNDCUBE」は、理想と現実のギャップにもがき苦しんでいた。

まずは自分の演奏技術がまだまだ足りなかったということ。そして元気さや熱量が評価対象になりやすいこのジャンルの音楽(個人的な考えです)にとって、どちらかというとスタジオで練習しているときが1番のびのび演奏できるような内向的な自分たちは不利な性格だった。

無理して明るい雰囲気を出そうとして失敗、結果として無残なステージになる。僕たちはライブハウスに出ることに恐れを感じるようになってきていた。

それでもライブに出てよとライブハウスの担当者は声をかけてくれるが、それは当然1公演1万円から高ければ3万円のチケットのノルマが自分たちにかかっているもの。チケットが売れればいいものの現実的に自腹を切ることは避けられないので、かなりライブ出演に慎重になっていた。


そんななかで、偶然下記のような有名バンドと対バンさせてもらったことがあった。

このライブ、フェスに出てたぞってレベルのバンドとの共演だった。中でもHOLIDAYS OF SEVENTEENとLOCAL SOUND STYLEなんて普通にCD買ってきて聴いてますってバンドだった。ライブハウスからしたら僕たちアマチュアバンドもお客さんだから、たまにこういう有名どころと対バンさせてあげることで長く出演してもらおう、という狙いでもあったのだろうか。だったらもっといいバンドいるんじゃないのか。というように自分らが混ぜられてるのが不可解なライブだったけど、MADBEAVERSというhideのバックバンドの人とユニコーンの人がいるバンドが出てたのもかなり謎。

とはいえプレイガイドでチケットを販売しているようなライブになんて当然出たこともなかったし(今でもねーよ)、チケットぴあのホームページで自分のバンド名を検索したらこの公演が出てくるので、それを眺めながらライブの日まですごくニヤニヤして過ごした。  

ライブ当日。ファン層の違いからかMADBEAVERSが1番目、自分たちはなんとそのあとのライブだった。いやいやスタジアムライブ経験者のあと僕たちがライブするなんて、たとえて言えばプロ野球の試合でサヨナラホームラン出た後に、どっかの知らん小学生チームの野球少年が始球式するようなもんでしょ…。

というわけで案の定会場はパンパンのお客さんで開演したものの、そのバンドの演奏後に「グッズ販売ありまーす」というアナウンスにつられてそこにいた人の大半がホールから出て行ったあとにライブをすることになった。内心ほっとしたような気分でもあったが。それでも自分らのあとにも人気バンドが控えていたので、観てくれてる人はさすがに普段より多かった。そうなると自分たちのライブを観てくれた人たちの反応が気になるところだったが、しかし無料配布してた自分たちのデモCDをもらってくれた人が皆無だったので、たぶんその場にいたお客さん全員が「空白の30分間」を過ごしていたんだろうなと感じざるを得なかった。  

ライブハウスの人もいつものノルマ3万円払ったあと、普段は「打ち上げあるから出てってね」みたいな感じなのに「今日は打ち上げないから」って帰された。
いや、あるでしょ普通。嘘つくなよ。

という、共演というよりかは、「たまたま自分のライブの近くで人気バンドのライブが開催されてた」という経験をした。

そして後日出演したほかのライブハウスの人から「なんでオマエラがあのライブに出れたんだ、バンドをなめるな」という趣旨のことを言われてしまったので、よりライブハウスに出演することが億劫になってしまったのである。


そのようなどうすれば良い方向に進んでいけるのかわからない僕たちだったが、とあるバンドとの出会いにより希望の光が差し込んだ。

そのバンドこそ「SHORT CIRCUIT」だった。

(※大げさに言ってますがCDで聴いただけです)

このバンドも、高校から愛聴していたHi-STANDARDなどと近い時期に結成され2006年まで活動していたバンドだったが、残念ながらリアルタイムで触れることはできなかったのだ。大学のサークルの先輩に教えてもらい、試しに聴いてみると気づいたらすべてのアルバムを購入していたくらいの衝撃だった。涼ちゃんはじめメンバーみんな、とても気に入っていた。

SHORT CIRCUITからは今まで僕たちが聴いてきたバンドにはない魅力を感じることができた。(失礼な言い方だけど)どちらかというとおとなしそうに見えるメンバー3人によって紡がれる曲は、シンプルな演奏に反してどれもがすばらしかった。

普段ライブハウスで一緒になるバンドを観て今まで必須事項だと勝手に思い込んでいたけど、絶対に速いリズムの曲をやらないといけないわけじゃないし、ライブでお客さんに向かって熱い言葉を投げかけなくてもいい。自分の性格を無理やり捻じ曲げたパフォーマンスをする必要なんてないんだ。自分の気持ちに素直に音楽をやればいいんだ。

そんな感想をすぐにバンドメンバーと共有した。

そうこうしていると涼ちゃんが作ってくる曲にも変化が現れ、持ってきたのがこの曲「One」だった。

涼ちゃんはこの近い時期に祖父を亡くしており、その思い出やもう会うことのできない寂しさを曲にしたという。まさしく自分の気持ちに素直になってできた曲。涼ちゃんってこんなにいい曲作れるんだなとほかのメンバー3人で感動しつつ、スタジオワークに徐々に活気がともされ、すぐこの曲をデモCDにするため自分たちで録音した。

そうして僕たちは最後の改名と心に決め「Pastwalker」としてリスタートを図ることとした(今になるとあんまり思わないけど、当時はめちゃめちゃかっこいい名前つけたな俺と思ってた)。


…という今までになかった心持ちで改めてライブハウスに出演していたが、その場ではなにか変化を感じ取ることはできなかった。せいぜい「ちょっと上手くなったな」という感想をライブハウスの人からもらえる程度で、自画自賛していたあの曲を披露しても特に反応がない。そんなライブを何度が続けている中で転機が訪れた。

とあるライブの出番を終えてmixiを開くとあのワクワクする赤文字「新着メッセージが届いています!」が目に入った。

差出人は「ホマテロ」という人物で「曲聴きました!すごく好きなのでぜひディストロさせてください!」という内容。僕たちはぶち上った。

これも大学のサークルで知ったのだけど、特にアンダーグラウンドなパンク・ハードコア・エモ・インディーみたいなジャンルでは、自分の好きな音楽を広めたいという思いでバンドやレーベルから作品を卸してもらいライブで販売したり通販をしている人たちが大勢いた。CDショップやレーベルの人がそれをやる場合ももちろんあるけれど、個人でそれをやっている人もいる。そういうディストリビューターたちをこの世界では「ディストロ」と呼んでいた。そしてそうやってCDを取り扱ってもらうのが個人的な目標だった。だってプロみたいじゃん。

前述のホマテロという人物もバンドマンでありながら「個人ディストロ」であり、「Popsicle Mail Order」という名前で通販をしていることは僕は事前に知っていた。

そしてここからはいやらしい話だが自分のプロフィールへ誘導して曲を聴いてもらおうと僕は彼のmixiのページに足あとをつけていた。顔も知らない彼だったがプロフィールに表示されている参加しているコミュニティーで大体音楽の趣味がわかるので、なんとなく「この人なら僕たちの音楽の良さをわかってくれるんじゃないか」と思ったからだ。この感じ、mixi世代ならわかってくれるだろう。

今なら「聴いてみてください!」とPRすることくらいたやすいのだけど、当時は勇気がなく、mixiにつけた足あとを踏み返してくれることを期待していたのである。うーん、きもい。高校生のときに1か月で振られた女の子のホムペの日記ををうじうじ見てるだけのことはあるぞデマンド。これがSNS黎明期に自らの思春期を過ごした男のやり口なのか。


ともかくその小汚い狙いは的中してめでたくホマテロにCDを取り扱ってもらうことができ、それを聴いたほかのリスナーからも小さいながら反響があり、結果として北海道から九州まで日本のいくつかのディストロでCDを取り扱ってもらうことにつながった。メジャーデビューしたらこんな気持ちなのかな、と僕はもう叶いようがなくなっていた夢を思い返した。

それだけでなく、転機を与えてくれたホマテロは同い年だったこともあり、次第に連絡を取り合う仲となった。サークル仲間であったバンド「キリエ」のナカジと同郷の三重県出身だということで、2人でホマテロの実家に遊びに行った。サークル以外のバンド友達ができたのが初めてだったのでとても嬉しかった。彼の家の裏の谷川がめちゃめちゃ深いことと、そこでアユをモリで突いて晩御飯に食べている様子に衝撃を受けた。  


そんな転機があってPastwalkerはごく少数ではあるが全国にリスナーを獲得することができたのだ。いくらライブをがんばってもそんな人あらわれなかったのに、口コミってすごいと思っていた。

そしてここからまたも失敗談になる。調子に乗った僕はメンバー3人に練習しているスタジオを変えようと提案した。

これまでは地元にあったうどん屋兼ギターコレクター兼ベンチャーズのコピーバンドのおっちゃん経営のスタジオを根城にしていたのだが、もっとバンドマンが集まるスタジオに行こうと。そこは小さいスタジオだったが共同生活をしながら活動しているバンドなども入り浸っていて、うまく行けばもっと知名度が上がるんじゃないかという魂胆だった。

僕たちはそのスタジオに出入りするようになり、スタジオのオーナーに2枚目のデモCDのレコーディングを依頼した。これについては理由は単純だ。安価でやったると言われたからだ。

しかしそれがまずかった。大した演奏技術もない僕たちがレコーディングを進めるうちにそのオーナーがめちゃめちゃ怒り出したのだ。

オーナーが呼び寄せたレコーディングエンジニアに恥をかかせたのが理由らしい。しらんがな。

夜10時頃から始めたレコーディング。手土産に持って行ったスーパードライ6缶をカラにしたそのオーナーによる同じ話が延々と繰り返される説教が終わったのは、朝日が昇り切ったあとだった。


一つの道を極めようとすれば、かならず困難な状況に突き当たる。会社でも、音楽で生計を立てようとする者にも、それはあるだろう。そしてその困難を引き起こすのは多くが相対する人間だ。

僕たちがメジャーデビューを目指しているのであればそういった意見や叱責も厳粛に受け止め、たとえ理不尽なことであっても立ち向かっていかなければならなかったかもしれない。会社だってトップセールスマンを目指すならば難しいお客様をクリアしていかなければいけない。

しかしPastwalkerはもう活動方針が変わっていた。自分の気持ちに素直にバンド活動をすることになっていたのだ。当然音楽で食っていこうなんてもはや思ってないし、厳しい就職活動をがんばって就職先だって決まっていた。正社員に就いてもバンドはがんばりたい、良くしていきたい。その気持ちは確かにある。ただオールナイト説教のリスナー僕たち4人の心の中にはきっとこの思いがあっただろう。

~オフ日の活動で怒られたくない~  

こうしてまたしても僕たちは活動意欲をギッタギタに踏みにじられてしまった。瀕死状態に追い込まれてしまった。  

スタジオを変えてもう一度レコーディングしようかという思いもあったが、金銭面のこともあり結果としては気持ちを押し殺しながら泥酔クソ野郎のスタジオで作業を続行した。何とか楽器や歌の録音を終え、あとはCDの音にしていくためのミキシング・マスタリング作業だったが、ヤツの仕事はとにかく遅かった。いつ続きの作業をさせてもらえるか相談したいのに電話もつながらないスタジオ。しかし機嫌を損ねると作品は完成しないかもしれない。3曲入りのCDが完成するころ、僕たちはサラリーマンになっていた。


ちょうどそんなことがあった大学卒業間際、Pastwalkerにとってもうひとつ初めての体験があった。ほかのバンドに誘われての遠征だ。

誘ってくれたのは今やビッグネームと言っても過言ではない3人組「CAR10」。開催地は彼らの本拠地栃木県足利市だった。僕たちの活動がそんなに活発ではなかったからどうしようかと思ったそうだが、曲の良さを買って誘ってくれたらしい。そんなことがあるのか。

対バンも豪華で「MATTER」「THE STEADYS」「SNAP PUNCH MOMENT」「ザ・ノロノロズ」など。

その誘いに二つ返事で出演快諾の返信をした僕たち。レンタカーで夜の高速道路を走り、初めての1本限りのツアーを敢行した。卒業旅行気分でもあったが、とても楽しいライブだったし、ライブ後はうれしい感想も多々あった。

僕はあのレコーディングで夜通し散々なことを言われたのを思い返しながらも、「やっぱり味方はいるんだ。自分たちの楽しいと思うことを選んでやっていったらいいんだ」と確信した。

CDがこの日に間に合わなかった悔しさも、大学を卒業してもこの4人でバンドやれるのかなという心配事も忘れようとしながら。

他のバンドの人たちと比べるとおそらく少ないであろう思い出をいろいろ書き記してきたが、次の記事ではそのころ僕の所属していた大学のバンドサークルで「Die Communications」が結成されるまでを書いていこうと思う。  


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