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バンドがやりたい大学生①

前回の記事「バンドがやりたい高校生」の続き。今回はいよいよデマンド少年が大学生となり、本格的に(?)バンドに取り組んでいくようすを記憶から呼び起こしていきたい。

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高校卒業間際、僕は高校の友達であった涼ちゃんに誘われてバンドを結成する。前述したように僕はベーシストとしての入団だった。
※この時点でベースに触れたことはなく、にもかかわらずベースの多々良はドラムにコンバートされた

それと並行して当時初めていたmixiを駆使して僕は同じ大学に入学予定のバンド好きな人を入学する前から探し始めた。

「〇〇大学2008年度入学予定者」というコミュニティではさまざまな人が交流を初めており、そこにはバンドをやりたいという者も一定数存在した。

「よし、ここでもメンバーを見つけて並行してバンド活動をしよう」と目論んだが、なかなかメロコア好きは見当たらず、どちらかというとナンバーガールとかアートスクールといったバンドを好きと言っている人が多かった。すっかりメロコア小僧だった僕は何それ状態だった。

そのうちにプロフィールに好きな音楽 GREEN DAY、THE OFFSPRINGと記載があったフウマという人物を見つけた。

これなら気が合いそうだなと思いコンタクトをとってなんどかやりとりをしてみると、バンドを組んだら目の周りにメイクをしてライブをするんだそうだ。
よっぽどGREEN DAYが好きなんだなと話を聞いていたが、本当はビジュアル系の方が好きらしい。
やばいと思ったころには僕は彼のバンドにベースで加入することになっていた。
※この時点でベースに触れたことはない


そして4月、僕は大学生となり新しい生活が始まった。
高校の友達もいなかったので多少の不安はあったが、これからの4年間への期待のほうが大きかった。

幸運にも入学した学部ではすぐ波長の合う友達が10人ほどできた。そのなかの1人がのちに自分も参加することになるメロディックパンクバンド 「Die Communications」のギタリスト、コンくんだった。

彼と話していると音楽はハードロックなどが好きでHi-STANDARDやHawaiian6なども聴いてきた、ギターもドラムも演奏するという。が、秋田から出てきたばかりの彼はあきらかに田舎の空気をまとっており、かなりのんびりしたキャラクターに見えた。ふふ、3月に初ライブを済ませたわたしの敵ではないわ…ひれ伏せい!と、このときは少しだけ思っていた。

僕は彼を誘い大学のバンドサークルを見学して回ることにした。
そしてなぜかマイミクのフウマもその場に合流することになった(初対面)。
コンくんは困惑していた。

大学内にはいくつかの音楽系サークルが存在し、その中でも僕らはロックコミューンというオリジナル曲のバンドのみで構成されるバンドを選んだ。
なぜかフウマもそこにいた。なんでついてくるんだと思っていたけど、忘れてた、だってフウマは僕とバンド組むんだもんな…。

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こうしてサークルに入ることは決まったが、僕はギターは持っていたがこれから商売道具になるベースがない。
僕はコンくんが京都を観光するついでに河原町へベースを買いに行くことにした。

今はなき京都ビブレの最上階の楽器屋・KEY。
僕はない知識を振り絞りベースを選定しはじめた。
「プレシジョン…?ジャズ…?」なんて思っていると、近くから大きな音のギターソロが聴こえてきた。
コンくんの試奏だった。いやめちゃくちゃギター上手いやんけ。

僕は恥ずかしくなりとりあえず目についたフェンダージャパンの赤いジャズベースを30秒ほど試奏した上で購入した。
音の良し悪しなんて当然わからないし、多分解放弦しか弾いてなかったと思う。


僕は先ほどの衝撃さめやらぬままコンくんの京都観光にベースを担いでひと通り同行してからすごすごと帰宅し、バンドメンバーである涼ちゃんにベースを入手したことを伝えた。

涼ちゃんはオリジナル曲を考えるまえにまず4人でいくつか曲をコピーする構想を持っていた。僕はエリック・クラプトンの「レイラ」のバンドスコアを手渡された。

30分で挫折した。


後日とりあえず涼ちゃんの提案で4人でスタジオに入ることになった。

全く弾けもしないベースをただただビンビンと鳴らしているのを他の3人が見つめているだけの時間が流れた。ベースが弾けるのになぜかドラムの前に座らされている多々良の顔を見て、僕は悪いことをしたのだとようやく気がついた。


一方大学のバンドサークルでは先輩のライブを観る機会も入学早々に設けられていた。そのライブに足を運ぶと開演早々「阪神タイガース」というバンドが登場し、当時アンチ阪神だった僕は不快な気分になった。絶対に聴いてやんねーと思った。のだが、演奏は素晴らしかった。特にベースの指の動きは目で処理できる速さを超えていた。

のちに一部のエモ/メロディックパンクシーンで絶大な人気を博した「The Tigers」である。

こうして僕はあえなくベースで食っていくことを諦めたのである。

しかしこれでバンドの夢を諦めるわけにはいかない。バンドで一旗あげないといけない。僕は生き残る道を探さないといけなかった。

するとコンくんがこう提案してきた。

「んならドラムすっべ」

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ちょうどサークルに入部した新入生でドラム志望者がほとんどいなかったこともあり、ちょうどいいかと思いサークルの部室(スタジオもどきの部屋)にコンくんと2人で入った。ドラムを教えてくれるという。

手際よくドラムセットの高さを調整した彼はいきなりHawaiian6のアルバム「BEGINNINGS」の曲を叩き始めた。

いやめちゃくちゃドラム上手いやないかい。

と驚きと動揺を隠すことができなかった僕に彼は右手でハイハットを4回叩くうちの1回目でバスドラムを踏み3回目で左手でスネアドラムを叩く、シンバルを叩く時には必ずバスドラムを踏むことだけを教えた。

彼はそれから楽器をギターに持ち替え、Hi-STANDARDのアルバム「MAKING THE ROAD」の1曲目「TURNING BACK」から演奏を始めた。

淡々と、且つ、ついてこいよ、お前の目の前のドラムを叩いてみせてみろよと言わんばかりのキレキレのギタープレイ。しかも手元をほとんど見ずに窓の外の空を眺めながら弾いている。高校の卒業記念ライブのバンドメンバーとは異次元のテクニックだ。  

いやギターもドラムもほんまにめちゃくちゃ上手いやないかい。

初めてドラムセットに座った僕は少し泣きそうになりながら6曲目「STAY GOLD」の演奏が終わるころまでじっと彼の演奏を何もせず見つめていた。自在にギターを操っている彼の手を見つめることしかできないままその日の練習は終わった。

とんでもない場所に身を投じたと思いながら、僕はとぼとぼ家路についた。

出鼻をバッキバキにくじかれた僕はバンドを続ける自信を早速なくしかけそうだったが、涼ちゃんのバンドにドラマーがいないこと、サークルの新入生にコンくん以外ドラマーがいないことを考慮してドラムを練習していく決心を固めた。


涼ちゃんにそれを伝えるととても喜んでくれた。
ドラムセットに座らされていたベーシスト・多々良も胸をその報せに撫で下ろしたに違いない。

こちらのバンドでは比較的ドラムが簡単そうだったNO USE FOR A NAMEの「Dumb Reminders」、THE BACK HORNの「罠」などを課題曲にして練習を開始した。

一方サークルの方でも誰かのバンドに加入することが喫緊の課題であった。だいたいサークルに入部してしばらくバンドを組めないままの者はいつのまにかサークルを辞めている、というのが現実であった。

5月くらいになれば新入生も徐々にバンドを組み始めていた。ドラムは当然コンくんが引っ張りだこになっており、ドラマーとして複数のバンドを兼任する形になっていた。スーパーマンやなあと心のなかでぼやきながらどうするかを考えていたが、ここでコンくんのスーパーマン具合が僕をアシストしてくれることになる。

実は彼はドラムよりもギターでバンドがしたかったのだ。さすがの彼でもギターを弾きながらドラムを叩くことはできないらしく、すでに学部での友人という側面もあったので初心者の僕を雇ってくれることになった。

ギターボーカルとドラムが揃い、ベースをどうするかだったが、コンくんは自身のフェイバリットであるバンドRed Hot Chili Peppersを同じく好むベーシストを連れてきた。

名前はワタナベくん。その風貌はおおよそ同じ大学1年生とは思えない長身・長髪・ゴム草履に真っ黒な5弦ベースをぶら下げていた。大学ってすごいところだなと思った。サークルの先輩は彼を「バガボンド」と呼んでいた。

ちなみにバンド名だが、僕が着ていたキャラジャで買った7分丈の赤い袖のラグランの背中に書いてあった「Refine and Gentleness, Safety」に決まった。
着ているTシャツはとんでもないが、名前が長いので当然いっこうに先輩に覚えてもらうことができなかった。

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その年の8月、僕たちは長野県のペンションで行われるサークルの合宿に参加した。そこでは普段オリジナル曲の発表に勤しむサークルの面々がコピーバンドをひたすら組み、ひたすら練習し最後にサークル内で発表会をする。僕たちリファインなんとかの面々はレッチリのコピーに絞って発表をすることにした。

スキー場のペンションは夏場は学生バンドサークル向けにスタジオになっていたりする。そんな冷房設備も不十分な夏のペンションの乾燥室でレッチリのドラムの特訓が始まった。3日間汗水を垂らしながらひたすら「Can't Stop」(もう1曲なんかやったけど失念)を練習し続ける。そこまで反復練習を繰り返していると、不器用な僕でもさすがに他の楽器に合わせてドラムの音を鳴らせるようになってきた。

それはそうとレッチリは4人組、僕たちのバンドは3人組なのでボーカルが足りない。そこで僕たちはボーカルとしてひとりの男に白羽の矢を立てていた。

その男の名は松岡、のちにDie Communicationsでギターボーカルを務めることになる男だ。

彼も自分と同様に初心者でこのバンドサークルに飛び込んだ身だった。しかし自分とは違い、いち早く自らがソングライターであるバンドを結成し、もう学内の演奏会でライブをする準備を進めていた。

そんな努力家である彼に僕たちはレッチリでボーカルをやるように依頼したところ、彼も合宿でやるコピーバンドを組めていないこともあって受け入れてくれた。そして一緒に練習していると歌詞を書いてきたのであろう紙を見ながらCDとは違う何か別の言葉を歌っていた。

聞いてみると自作の日本語詞ということだった。

彼は自作の日本語詞をレッチリの曲に載せて披露するためだけに長野県に来たのか…。ますます大学とはすごい人が集まるのだというのが身に染みた。


そんなこんなで無事合宿も終えることができ、そこからはいよいよ学内の演奏会でライブへの出演も視野に入れて作曲と練習を始めた。

ほかの新入生に後れをとりながらも、12月には15分だけの枠ではあったがなんとか人前でライブを敢行するところまで漕ぎつけることができた。

ほどなくしてバンド名を「Jackknife Bicycle」と改めて、サークル内では異端だったがガレージバンド的な音楽で2人に引っ張られながら活動を進めていった。

フウマはいつの間にかサークルから姿を消していた。


さてここからは高校の友人である涼ちゃん、西川、多々良とのバンドの話に戻ろう。

僕のドラムが少しずつ上達するに従って、徐々に涼ちゃんもオリジナルソングを持ってきてくれるようになった。

ここで変に意識が高かったのが、4人共に好きな音楽であるはずのメロコアに走らなかったこと。いやそれ活動歴15年くらいで方向転換の末にたどりつくやつやん。

涼ちゃんが初めて持ってきた曲は「光の渦」というタイトルでマイナー調の7分くらいあるものだった。他の曲もマイナー調の四つ打ちの曲があったり、総じて暗めの楽曲が4曲できた。これが売れるためへの最短距離なんや、俺はいま滑走路に立ってるんやと当時はわりと思ってた。


バンド結成から1年と少したった5月ごろ、こちらのバンドでもついに初ライブの日がやってきた。

会場は2020年4月をもって一旦閉店となってしまった京都 三条通付近にあるVOXhallだった。あまり内容は覚えていないが、観に来てくれた当時知り合いの女の子がすごく褒めてくれたのが印象に残っている。それ以降一度も会ってないけどなんで観に来てくれたんだろう。

それからというもの、京都ではMOJOや今は亡きWHOOPEE'S、滋賀ならU-STONEやB-FLATといった名の通ったライブハウスにもやたらと出演依頼を送り、月に数本のペースでライブを重ねた。

「おお…俺はバンドをやってるぞ…みんな俺のバンドの曲を聴け…ライブに来い…」と当時作ったオフィシャルサイト()のライブスケジュールを更新しながらわくわくしていた。

スタジオで簡単に録音してきたものを当時隆盛を極めていた音楽系SNS「MySpace」にアップロードしたときには感動に近いものがあった。

どうやら僕はそうしてバンドマンぶっている瞬間が非常に楽しかったようである。

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とは言え所詮まだまだ駆け出しのバンド。そんなものをわざわざ見に来たり聴きに来たりする人はいない。ダイヤの原石を探しにくるような炭鉱夫もいない。ライブに来てくれるのは優しい友達。そんな友達も月に数回ライブをやっていたら当然底を尽いてしまうのだ。

まだなんのコンセプトも世界観も演奏技術もないバンド。ライブハウスでも演奏が終われば毎回ライブハウスのブッキング担当(出演バンドを集めたりする人)から、「不協和音」とか「暗い」とか「もうちょっとお客さんを呼んでくれ」とか酷評されることが続いた。

今思うと初心者バンドが繰り広げる地獄の30分間をよくあんなに真顔で耳栓もせず見続けて、真摯にアドバイスをしてくれてたよなあとも思う。それが仕事だと言われたらそれまでだけど。しかし酷評の中のアドバイスは最後に「んで、次いつやる?」って訊かれるのが(金銭的な面で)怖くてあんまり頭に入ってこないのだ。


そんな状況が半年ほど続いて僕たち4人はこう結論付けた。

「曲が暗いのが疲れるんや」

それから僕たちは普通に自分たちが好きな音楽、メロコアソングを作ることになった。歌詞も日本語だったのが英語になった。


そう、このバンドの名前について書くのを忘れていた。

前述の初ライブは「The Wonder Call」という名前で出演した。当時は「The」で始まるバンド名がかっこいいという理由でこのようなバンド名になった。しかしその名前の何が気に入らなかったのか2本目のライブは「The Round Cube」という名前になった。それからしばらくしてRoundとCubeの間のスペースが気に入らないみたいな話になり「The Roundcube」という名前になった。そうこうしているうちにTheで始まるバンド名ダサくないかという話になり「ROUNDCUBE」という名前になった。おさるかお前らは。

それにしてもこんなどうでもいいことをよく覚えているなと書きながら感心してしまう。全部自分が言い出したから覚えてるのかもしれないけど。


さて、紆余曲折の末、自分たちが好きなジャンルの音楽で勝負をすることになった僕たち4人だが、だからと言ってそう簡単にことが運ぶことは当然なかった。

そもそもメロコアという音楽は早いリズムの応酬になるが、ドラムを初めて1年2年そこら。やっと初級コースを滑っているやつがその日にモーグルのコースを滑ることができないのと同様、簡単にドラムを演奏できる音楽ではないのである。まずは基本をしっかりできるようにならないといけない。スキーや寿司職人と一緒である。

あとこのジャンルの音楽をやってる人、ステージの上に置いてあるスピーカーに乗りながら「もう一歩前へ来てくれよ~」とか「かかってこいよ!」とか「遊ぼうぜ~!」とか観ている側へのご注文をしきりにおっしゃられる方が多いのだが、自分たちはそんなガツガツ人を煽っていけるようなパリピ側の人間ではなかった。当然演奏が良ければ無言のライブだってそれなりに格好もつく。しかし前述のとおりまだまだ駆け出しの僕たち。元気さでそれをカバーすべきだったのだろう。それはわかるがたまーにライブハウスの人から「君たちはなんでお客さんを盛り上げようとしないの」とか「打ち上げ出ろよ~」なんて言われたりもしてなんだかライブハウスに出るのも嫌になってゆき、結局根本的には暗い曲をやっているときのマインドから抜け出せない日々が続いたのである。

スタジオで4人で音を出しているときが4人が純粋に音楽を楽しめる時間だった。


バンドがやりたい大学生②へ続く。

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