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「怒りの構造」〜承知してない実害に直面すること〜

先日、発見した「怒りの構造」です。

何冊購入したかわからないほどAmazonで書籍を購入しています。ひとりで読むものはKindleにしますが、職場の同僚と共有したくて、月に何冊も紙媒体を買ってます。そのため経費を抑えるために買うのは出来る限り中古品。Amazonはその点便利です。

さて、中古品。時々メモが挟まっているのはご愛嬌。ページの黄ばみも書き込みも中古品ならでは。そんな”きず”があっても、それを承知で買っているから不満はありません。安いし。

だけど新品のページが黄ばんでいたらどうですか?「おいおいふざけるな」と苛立つでしょうね。苦情を言ったら大幅に値下げされて、値段と質が同じになったら不満は解消されますか?いや、やっぱりモヤモヤは残りませんか?安くなったから我慢しよう、とはならないのはどうしてでしょう?

この違いは、事前に承知しているかどうかだけ。

直売所で訳アリ品と書いてある野菜と、スーパーで特売品の野菜では許すレベルが違います。新品では許せなくてもアウトレット品では許せることがある。「シミあり」と書いてある古着は許せても、バーゲン品にシミがあるとイラッとする。掲載写真とぜんぜん違う具の量のピザは許せない。

いずれも、事前に承知しているかどうかの違い。

先日、Yahoo!知恵袋に面白い話がありました。
京都から関東に引っ越しした方が近所の方と長話になって、そろそろ解放してほしくて「いい時計してますね」と伝えたのに、時計自慢になってしまったことを取り上げて「言葉が通じない」と憤慨したことを投稿してました。(さすがに多くの人に諭されていましたが)

この京都出身の方は「いい時計してますね」が「そろそろ解放させて」と通じると思ってた。京都(の一部?)で通用する暗示が全国どこでも通じると思いこんで、他の土地では通じないと知らなかった。つまり不機嫌になったのは、承知してない事態に直面したから。自分の了見が狭いことを自覚してないゆえに苛立って、周りから了見の狭さを指摘されてしまった。トホホ。

承知していれば、かなりな負担も我慢できます。

例えばお医者さん。注射の時に「痛いよ、我慢してね」と言葉を添えてくれます。医者が注射するのは当然。医者に罹った自分が注射を打たれるのも必然。注射が痛いのも逃れられない。痛さは変わらないけど辛さは変わる。

“Pain is inevitable. Suffering is optional.”
痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)

しかし検診でもなんでもない場面、たとえば電車で、医者らしくない服装の人が隣りに座って、突然あなたの腕をまくって、無言でいきなりブスッ!っと注射したらどうですか?痛さと恐怖と怒りと…驚きのあまりに絶叫するでしょう。僕はします。絶対叫びますね。知らんけど。

これは極端な例だけど、承知してないから怒る。承知していれば怒らない。

Twitter上で罵る言葉を投げつける人も承知していないのでしょう。

著名人から自分が承知できない言葉が現れた時、我慢できない人は「それはあなたの一方的な見解。さも正しいかのように流布るふしないで!」と訴えたい。承知できない言葉が突きつけられる。古本に例えると「それを売りたいのはわかるけど私は買わないよ」という感じですね。

承知するって大事。
知ってるだけでなく、納得して覚悟している状態。

「言ったでしょ」「見たでしょ」なんて言われても、聞いたけど承知してないし、見たけど了承してない。勝手に決めないで。それが怒りの構造。

マイナンバーカードの義務化?
そうしたいのはわかるけど、その話には乗りたくないよ💢
承知していません。

承知したくても情報と議論が不足して承知できないまま制度化されることばかり。政府に隷属すればこのストレスはないのだろうけど出来るわけない。政府は親でも上司でもない。承知しないから言葉にする。親でも上司でも。

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