見出し画像

相対主義に関する考察

相対主義なるものを考察してみた。
(参考文献)https://core.ac.uk/download/pdf/35415291.pdf

----------
私はこう考える。

この世に生を受けたもの、万人はすべて平等であり、各々が同じく尊ばれる権利を持つ。同じ時空間を共有して育ったものは誰一人としておらず、自分と全く同一の認知の人間など居るわけがない。そのため当然、社会は異なる思想を持つことを尊重し、多様性を重んじる。

もし真理がひとつであると信じられているならば、異なる思想を持つ者同士で真理の王座の奪い合いが始まる。自己の信念⇒真理とすることの如何に楽なことか。思考を停止させ、対話を省いて、これが絶対だと言って争う。

こうやって、絶対主義は選択肢を収束させる。
一方で、相対主義は選択肢を拡散させる。

相対主義の「真」「偽」は自己論駁ろんばく的となり、それ自体には適用できない。従って相対主義ではフィットするかしないかが適用されると私は考える。その時、その場所、そこにいる人でフィットするもの。環境変化、限り在る資源、時代変化のなかで正しさは移ろいゆく。諸行無常。正しさを決めず、対話で楽しさを決める。

真理とされているものを追求して、その真理とされているものに固執すると、科学までもが束縛され、あらゆる物事の発展が阻まれる。外在する法を真理とし、自身が様々なものを培った時空間をそっちのけにして、考察もなく、無根拠に全身全霊でしたがってしまう。
ゴーストタウンはスマートではない。

自分の内規が自分を律する。異なる内規を持つ他者と折り合いをつけるガイドラインとして外在する法を使う。各々の内規を自己に対して正当化するために外在法を使うことはできても、他者の内規を否定するために外在法を使うことは出来ない。

相対主義は真理を追求する哲学ではなく、その上位的なメタ哲学。それゆえに特定の思想に帰結することはなく、人々が崇高に信仰するものにはなりえない。西田幾多郎が唱えた絶対矛盾的自己同一との共通点を感じる。相対主義は「世の中は矛盾だらけだ」を認めることかも知れない。

しかしそれは他者の思想に無関心になることを推進するものではない。

むしろ互いの思想を机上に並べて公平な眼で相違を見定める必要があるため、論理を通して未知を想像する知性や、持論を押し通したい欲を殺す理性が問われるものとなる。そこで浮き彫りになった相違に我慢できず、規範や裁判官のような第三者的存在に白黒を決めさせることは相対主義というよりも絶対主義である。外在法に身を委ねる絶対主義に対して、個々人の力量で乗り越えるのが相対主義と考える。

相対主義は理知的な個人同士で成立するものであり、個人の自由が保証される一方で、個人の責任も重くなる。この世に生を受けた人間が自由を平等に得られると同時に、課せられる責任も平等であることを免れない。自己の自由を保証するために、自由が保証される安全な環境づくりの責任を果たす。自由と安全を保証するために自己に課せられた義務を果たすことが求められるのが相対主義だと考える。

支援を必要とする被養護者や被養育者の自由は保証されて、安全保証の責任から免れることができるが、その環境は絶対主義で営まれている。

自立して職に就く成人は安全保障を構築する役であり、責任から免れることは出来ない。

成熟した大人は相対主義の基盤の上で、自己を高めていく必要がある。

そう考える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?