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「愛する」とは何ですか?

「愛する」は動詞?

愛する。~する。サ行変格活用の動詞ですね。動詞なので「していない状態」から「する状態」に変化します。

起立する(起立していない状態から起立する)
移動する(移動していない状態から移動する)
起動する(起動していない状態から起動する) など

しかし「愛する」については色々やっかいです。

(愛していない状態から愛する)というと「よりを戻す」ような意味に聞こえます。

それは「愛していない」には何も起きてない中立状態よりも「嫌い」という反対の意味が強く含まれているから。

世間では「愛する」は「動作」ではなく「感情」を表す言葉として広まってます。それは”好き・嫌い” と ”愛してる・愛してない” を混同しているから。

今は「愛する」は「自分の意思による行動」というより「湧き出る感情に駆られた行動」の意味が強くて「恋に落ちる」に近いですね。

すなわち「愛する」は動詞だけど能動的ではなく、落ちるとか彷徨さまようのような受動的な動詞です。

見返りを求める理由

「自分の意思を持った行動」ならば、意思を果たせれば本来は満足します。自分の意思に基づき能動的に「愛する」ならば、愛しただけで自分を満たせます。本来は。

だけど”愛"というと"満たす"よりも"満たされていない”と感じる人は多いでしょう。それは”愛"とは「愛されること」と考えて、愛する能動的な行為とは考えないからです。

「湧き出る愛情に駆られた行動」には自分の意志はありません。激しい情動にとらわれて我を失っている状態、それが一般的な「愛する」。そんな我を失う「愛する」は理性が愛情に揺さぶられて「やられた」感におちいってしまう。

すると相手を道連れにしはじめる。自分ばかり感情揺さぶられてズルい!あなたも揺さぶられなさい!って、感情に揉まれて我を失う仲間を求めて道連れにします。

それが見返りを求める構造。

だけどなんだか「愛する」ことは我を失うパーティだ。これじゃ覚醒剤とちっとも変わらない。

愛するって良いことなの?

「愛する」は本能的な行動と考える人は多いかもしれませんが、このように覚醒剤さながら理性を失う行為では”良いこと”とは言い難いですね。

「愛するということ」の著者エーリッヒ・フロムによると、愛するとは「動作」だから「愛していない状態から愛する」ように変化を伴うもの。つまり「愛していない人を愛する」ことが愛するという能動的な行為らしいです。

さらには能動的な行為である以上、そこには技術が伴うと説かれています。

この考えは、それまでの自分の認識と全く異なり大変驚きましたが、認識が整って。世界がシンプルに見えるようになりました、さらに前段でお伝えした「愛する」に対する違和感を言語化する助けになりました。

理性的で能動的な愛ならば、見返りも共依存も心配ありません。

この知見は自分にとって非常に有意義です。愛する技術を高めれば広く多くの人を愛せる、博愛精神を実践できるという気持ちになりました。

ということは…どうしたらいい?

理性的かつ能動的に愛することは良いことだと思います。

しかしこのような愛し方は少数派。頭で理解しても、どうしたら良いかなどわかりません。いや、そもそも私たちはどのようにその間違った愛し方を身に着けたのでしょう?

周囲の人の愛し方が身についたのかもしれませんし、ドラマや映画から学んだのかもしれません。

私たちは自覚している以上に周りの影響を受けています。乳幼児期に受けた親からの愛情が模範になっているかもしれませんが、そのような慈愛に溢れた愛し方など大人相手にしませんね。

だからそれこそ、人を愛する技術を学ぶ場所が必要なのだと思います。まずはフロムの「愛するということ」を読みましょう(自分、未読了です)

愛していない人を愛する技術とは博愛です。
恋愛ではなく、慈愛でもありません。それらは感情です。
行為としての博愛を身につけるのが、愛することです。

博愛を身につけるにはエンパシー(共感)とシンパシー(同情)を区別することが大事。不特定多数を「愛する」こととセットで必要な技術です。

今はまだ「情動に駆り立てられた愛」が一般認識で、その不足感にさいなまされる人が世界中に多いと思いますが、その「愛する」は我を失っている状態だと認識を改めるのが良さそうです。

さて、感情を抜きにして他人を能動的に「愛する」ことは良い、とわかりましたが課題が残りました。「愛する」教室、それは別に考えましょう。


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