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「空を見るといいよ」~阪神大震災と能登半島地震~

 1995年1月に発生した阪神・淡路大震災から29年。「大阪もすごく揺れてね、こわかったよ」と毎年母に言われるが、生まれる前の出来事なので実感がわかなかった。だから、震災当時、兵庫県内の自治体に勤めていた50代男性のYさんに発生時の様子を聞いてみた。インタビュー原稿を書き上げた翌日の今年の元日、阪神と同じ震度7の地震が能登半島を襲った。大阪でも揺れは大きく、他人事ではなくなった。そして、1月17日、阪神大震災の追悼の集いに参加し、発生時刻に黙とうをした。この1カ月間考えたのは、災害の時代とどう向き合えばよいのかということだ。【2年・杉浦里音】

震災直後の様子を聞く

 Yさんは阪神大震災が起きた午前5時46分、どこで何をしていたのか。
 「早朝だったので自宅で寝ていた。大阪も震度5くらい揺れてな。テレビをつけたら大きな地震やったことが分かった。電車も止まっていて、車でも行かれへん。ヘリコプターからの映像を見るとひどい状況やって。絶対に職場に行かなあかんからマウンテンバイクで行くことにしたよ」
 「朝8時くらいに家を出て、10時くらいに着いたかな。当時はガラケー。地図なしで記憶を頼りに向かった。大きな余震もなく比較的安全に行けた」
 どのあたりから景色が変わったのだろう。
 「国道2号で大阪を越えて兵庫県尼崎市に入ってもそんなに変わらなかった。尼崎と西宮の市境の武庫川を渡った瞬間、家がバーって倒れててな。景色が全然違った。国道沿いの家はほとんど倒れていた。淡路島から西宮を通って斜めに断層が走っているから被害がひどかったと後で調べて分かった」
 職場は無事だったのか。
 「庁舎の6階から上がグシャッて倒壊していた。壁にヒビが入っていて、トイレも使われへん。水道も止まっていた。机やロッカーも全部グチャグチャ。着いたら、2階に災害対策本部が設置されていて、被害のひどい地域から多くの連絡が来ていた。状況調査に行きなさいと言われて自転車でそこら中に向かったよ」
 被災地の様子はどうだったのか。
 「倒壊した建物に人が挟まれて出られない場面に居合わせた。『助けてください』と言われ、みんなで助け合って、2人ぐらい建物から引っ張り出した。阪神香櫨園駅近くの森具地区は被害がひどかった。毛布を持って行くため避難所に向かうと人であふれていた。公民館や学校だけでは追いつかなくて、民間施設も避難所になった」
 衝撃的な光景は何だったのろうか。
 「当時、下水道工事の仕事をしていてね、ニテコ池(西宮市北部にある貯水池)辺りの夜間工事が終わって、きれいになったと思っていて。その数日後に地震が起こって池が全部崩れてん。下水管が全部落ちていたのを見た瞬間が個人的にはショックやったな」
 「阪神高速神戸線の高架が倒れている映像は見たことあるんちゃうかな。現場調査に行く時、その横を自転車で通った。バスが落ちそうなところで止まっているのを見て、『こんなん起きるんや』と衝撃を受けたよ」
 震災の教訓は何だろう。
 「自分の命は自分で守ること。何かあれば逃げる準備をしておく。備蓄品をそろえて避難場所も調べておく。自分の地域の危険な場所をハザードマップで見ておく。そういうことはいつも言った。防災に特化した地域組織の自主防災組織を作ろうという動きができたのが一番大きい」
 Yさんは最後に「東日本大震災といった大災害があると防災意識が高まるけど、今は再び意識が低くなっている」と言っていた。平常時から災害シミュレーションをして備えておく。災害に関しては、こわがり、考えすぎるぐらいがちょうどいいのかもしれない。

能登半島地震が起きた日

 Yさんから聞いた話を書き上げたのは、2023年の大みそかの夜。その翌日の夕方、能登半島で震度7の地震が発生した。その時、私は大阪で車に乗って移動中。ラジオで緊急地震速報が流れた。胸がザワザワする。「石川県で震度5を超える地震やって」と一緒にいた母が言う。元日に起きるのはなんか嫌だな。そう思いながら、親戚が住む東大阪市のマンションのエレベーターに乗る。祖母と叔母と母と私。14階で降りてすぐの出来事だった。
 ガチャンガチャンと激しい勢いで音を立てる非常口の掲示灯。叔母が「キャー」と叫んで縮こまった。手すりをつかんで耐える。ぐらぐらと揺れる視界。高層階だからだろうか、体感では震度5くらいある。震える叔母と祖母の手をつかみ、「大丈夫だから動かないで」と声をかけた。座って揺れが収まるのを待った時間は数分だったのに、その倍以上に感じた。
 揺れが小さくなったのを確認し、祖母を支えながら部屋に入った。テレビをつけると「津波が来ています!」と叫ぶNHKのアナウンサーの声。日常が崩れるのはあまりにも突然。手は震えているのに頭は冷静だった。部屋の中でも酔いそうな揺れが続き、気分が悪くなりそうだ。叔母は頭を手で覆いながら「やめて」と叫んでいた。6年前の大阪北部地震の時、14階のマンションは相当揺れたらしい。今は、叔母の背中をさすることしかできない。災害の原稿を書いた次の日にこんな大地震がくるなんて予想もできなかった。
 防災意識が低くなっていたことに、今回の大きな揺れを体験して気づいた。幼少期は関東で過ごした。関東は地震が多い。停電して懐中電灯で部屋を照らした夜。宝物を抱えて机の下に隠れた日。母の手を取り、ベランダから避難しようとした瞬間。忘れたことは一度もないのに、地震慣れをしてしまっていた。
 Yさんが何度も繰り返していた「自分の命は自分で守る」という言葉が頭をよぎった。自分だけでなく、他人を守ることもできるだろうか。能登半島地震のテレビ画面に、足腰の弱ったお年寄りをおぶって走る若者が映る。室内では、祖母が椅子を支えにゆっくりと座る。地震を他人事とは思えなくなった。

1.17のつどいの会場に並ぶ紙とうろう

1.17のつどいで聞いた被災者の言葉

 年が明けて半月が過ぎ、阪神大震災は発生から29年がたとうとしていた。神戸市中央区の東遊園地で震災当日開かれる「1.17のつどい」にボランティアとして参加した。
 現地に着いたのは1月17日の未明。ひとけのない空間に並んだ紙とうろうに書かれた文字を歩きながら読む。たどたどしく書かれた「平和」という文字、「東北から応援しています」というメッセージ。被災地の石川県に届けようという想いが伝わる。厳しい冷え込みの中、この空間だけは暖かい。   
 「慰霊と復興のモニュメント」の地下にある瞑想空間に足を運ぶ。緩やかに下る通路を抜けて、犠牲者の名前を刻んだ空間に着いた。あの日までは私と同じように日常を生きていたんだな、と思う。ニュースで知った犠牲者数はただの数字なのに、膨大な数の名前を見た途端、現実味が増してこわくなった。飾られた折り鶴を見て、どこか安心する自分がいた。
 東遊園地にボランティアや被災者が語り合う交流テントがある。石油ストーブの前に座ると、温かいお茶をいただいた。
 「元日の地震をテレビで見てね、思い出したよ」
 中年の男性がつぶやいた。阪神大震災が起きた直後、子どもを抱きながら命からがら外へ出たという。インターネットはない。何が起こっているのか全く分からない。連絡手段もなく、避難所同士で連携を図るためにバイクで何度も行き来した。老若男女関係なく詰め込まれた避難所にはプライバシーはない。「強盗や強姦もあったよ」と言う。模倣犯が出るからと口止めされていたそうだ。性暴力に声を上げるのは勇気がいる。ましてや被災直後。被害に遭っても誰にも何も言えないだろうと思った。
 「痛くて痛くて、がれきに埋もれた時のことは忘れたことがない」。隣の男性が苦しそうな表情を浮かべながら語った。
 テントの外では、報道陣が撮影の準備をしている。話し声、土を踏む足音。耳をすまして聞こえる声が「たすけて」という、被災現場の状況は想像できない。
 外がだんだん賑わってきた。真っ暗なのに会場は人であふれていた。ろうそくをもらい、火をつけようか迷っていると、「希望の灯りから火をもらうから、まだだよ」と通りがかりの男性が教えてくれた。無事に火をもらい、竹どうろうに灯した。ロウが服や靴に垂れたが、気にならなかった。ここにいる人たちは他人のはずなのに、他人じゃないみたいだ。
 黙とうの時刻が近づいてきた。緊張して、じっとしていられない。「黙とう」という声が響いた。手を合わせて目をつむる。カメラのシャッター音だけが鳴り響いていた。黙とうが終わって見上げると、シャボン玉が空を舞っていた。
 「空を見るといいよ」
 交流テントで被災者から聞いた言葉だ。地震雲が現れていないか、毎日空を見上げて確認しているという。「迷信とも言われているけどね」とその人は笑っていた。私もかかさず空を見るようになった。地震が起こったあの日を忘れないように。