現代資本主義の金融経済(8)

2. 新興国経済の台頭
① 中南米の累積債務問題
中南米諸国は、1960年代までは順調な経済成長を示し、米国にとっては貿易の相手国としても、重要な地域に育っていた。政治的には紆余曲折があり、1970年代には軍事政権が成立する国が多くなった。その背景には経済成長の鈍化、失業の増大といった問題があり、また社会主義への接近を恐れた米国による工作、政治圧力があったことも指摘できるだろう。
ブラジルは、1960年代は順調な経済成長を示しており、工業化の進展により中進国としての所得水準を達成していた。ブラジルはいわゆるフルセット工業化を目指して輸入代替を軸に工業化を進めたが、これはブラジルが世界市場で競争力を持てる産業を育成することにはつながらなかったという評価が多い。ブラジル側の事情からみれば、1970年代のオイルショックによって経済成長がとまり、公共投資による景気刺激を求めた結果、対外債務問題を抱えるに至った。
一方、世界経済をひとつの経済としてマクロで捉えてみることから中南米の債務問題を位置づけることも必要だろう。中南米の累積債務問題は、世界的な規模で「貨幣資本の過剰」が本格的になっていった端緒ととらえることができるかもしれない。貯蓄と投資を世界経済全体でみてみれば、同額で均衡するが、この時に貯蓄というのは投資(生産手段など現物での資本蓄積)の裏側にある貯蓄という意味であってかならずしも貨幣的な貯蓄の増加を意味しているわけではない。なぜならば、消費(個人にせよ政府にせよ)を行うための負債の増加も片側では貨幣的な貯蓄を構成するからである。中南米の累積債務問題にあてはめてみると、中南米の政府などの財政支出(その主な部分が消費)に充てる資金を米国などの民間銀行から借り入れたわけで、銀行の側では貨幣的な貯蓄の増加=貨幣資本の蓄積が起きているが、中南米政府の側では生産的な資本蓄積が行われているわけではない。ここに生産的な資本蓄積の進行に比べて過剰な貨幣資本の蓄積が起きている。
しかし、この債務累積構造は持続可能なものではなく、第二次オイルショックを契機にした米国の金融引き締め政策によって、債務のデフォルト問題として世界的な金融危機の問題となった。結果的に中南米諸国が、ドル建ての債務の元利の支払いを継続していくために必要なのは貿易黒字であり、それを生み出すために緊縮政策で国内需要を抑えマイナス成長もやむなしで輸入の減少と輸出の増加で貿易黒字を生み出していった。これにはIMFが政策決定に関与し、債務国に緊縮政策の押し付けを行ったという事情がある。この貿易黒字の規模は相当のものであった。例えばブラジルの場合, 1982 年の貿易収支は30億ドルにのぼる赤字であったのが,危機発生直後、翌年の1983年には65億ドルの黒字に転換, 1984年には126億ドルの黒字と史上最高を記録した。その後も1985年124億ドル、黒字額が一時的に縮少した1986年でも83億ドルの黒字を維持し,さらに1987年からは黒字が拡大して108億ドルとなり、1988年には1 9 0億ドルにまで黒字が拡大した。ブラジルは、こうして日本, 西ドイツに次ぐ世界第3位の貿易黒字国となっていた。中南米の他の主要国も貿易黒字を拡大させていた。この背景には米国が内需中心の景気拡大で輸入を大きく増加させていたという条件があった。つまり、中南米債務問題は米国の双子の赤字問題へと形を変えていったのである。その本質が財政赤字の拡大と表裏一体の「貨幣資本の過剰」であることはかわらなかった。本質的な問題は何も解決されなかったといえる。
また中南米諸国は永遠に緊縮政策を続けることはできず、重すぎる債務の軽減を行う必要があった。これは米国の商業銀行など返済してもらう側から見ても、確実に債務の何割かを返済してもらう方が、すべてを失うよりよいという判断もあり、実質的な債務軽減が行われた。1989年に米国ブッシュ政権のブレイディ財務長官が累積債務問題解決のための包括プランを提唱した。具体的には債務国に対し経済構造改革を求めると同時に、先進国の債権者に対しても、債権償却、長期債への債権組換え、若しくは低金利による新規融資などの手段による負担を求め、債務国の返済負担を軽減した。同時に国際通貨基金(IMF)や世界銀行など国際機関の積極的な関与も求めた。
これによって中南米の累積債務を抱えた国々は、その後数年にわたって財政緊縮政策を継続し、経常黒字を維持しながら対外債務を返済していくという経済構造となった。こうした政策は、賃金の抑制などによって労働者や農民を犠牲にすることにつながり、これへの反発の動きは多くの国で政治的な変化ももたらしている。たとえば、ブラジルでは1985年には軍事政権から民政への移行がされていたが、1995年には社会民主党の政権が生まれ、さらに2003年以降、さらに左派的立場をとる労働者党の政権が生まれている。アルゼンチンでは1983年に大統領選挙と議員選挙が行われて軍政から民政への移行が行われていたが、いったんは新自由主義的な政策がとられ緊縮が推し進められたが、2003年には正義党左派の政権が成立して社会民主主義的な政策にシフトしている。

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