住専問題からみる日本の財政問題

「社会主義」1996年11月号(社会主義協会

                              北村 巌

はじめに

 今年は住宅専門金融会社の清算問題の政治化から始まった年だったといっても過言ではないだろう。この問題は広く国民に、金融破綻の問題、官僚体制の問題を提起する絶好の機会となった。マスコミ的な意味で世論動向をみれば、国民的関心は大銀行の腐敗や大蔵官僚の金融行政への不信となって現象しているようにみえる。我々がなすべきことは、第一にこの問題が深く現代資本主義の矛盾に結び付いていることを明確にすることであろう。第二に財政金融問題としての具体的な政策的立場が確立されなければならない。不完全ながら、この両者の課題について私見を述べてみたい。

1.「バブル崩壊」の意味と現代資本主義

 90年代に入って日本の景気は戦後最長の不況を経験した。景気の定義を企業利潤とし、従って搾取の蓄積のスピードに結び付ければ、90-94年度が「不況」と位置づけられるだろう。国民経済計算による付加価値額の「実質値」の増加速度(いわゆる実質経済成長率)でみれば91-95年度が不況と位置づけられるかもしれない。いづれにせよ、5年間という長期不況であり、その後の回復過程も力強さを欠いたものであることは指摘するまでもなかろう。
 87-90年の景気拡大が終了し、半ば「恐慌」的状況を現出した直接の要因は、現象的には労働力不足からもたらされた賃金上昇であった。この時期の賃金上昇はまったく労働者の闘争の盛り上がりによってもたらされたものとはいえない。むしろ、国鉄分割民営化攻撃、連合の発足など、労働者側の闘う団結を解体する過程が同時進行していたのである。一方、景気拡大がもたらした労働力の需要の増加=蓄積速度の高まりが、資本主義の市場経済の法則性として賃金上昇をもたらした。具体的には、建設投資の急拡大による建設業の労働力の不足、一般的な単純労働力の不足を特徴とし、他職種、他産業へも間接的な賃金上昇圧力の波及が起きた。こうした賃金上昇が、労働分配率の上昇となり、企業収益をはっきりと圧迫したのが90年である。国民所得統計によれば、88年度から91年度にかけて、名目GDPは57兆円増加したが、同時に雇用者所得も42兆円増加、減価償却が10兆円増加し、他のコストの増加もあわせ、法人企業所得は4兆円減少した。この結果、資本の投資拡大意欲は喪失し、それまでの投資の過剰な積み上がりが、過剰生産力として現われることになった。
 続く92年は「恐慌」とも呼びうる年であった。設備投資の急激な減少はまず機械設備から現われたが、もともと着工が予定されていた建設関係も92年には減少しはじめ、全面的な固定投資の減少となった。加えて、不況による国内需要の減少は、貿易黒字の再拡大によって円高をもたらし、収益面で輸出産業にも打撃を与えた。この時期に自動車を中心に輸出産業が、生産数量削減による輸出価格維持を図りある程度成功したことは、注目に値する。こうした状況に加え、ヨーロッパの通貨混乱(EMS固定レートの崩壊)が金融情勢に悪影響を与え、夏には株価が暴落(日経平均で14000円水準)するなど、金融恐慌の一歩手前の情勢であった。
 92年「恐慌」の本質は「過剰生産力」の発現である。問題は好況期における生産力の増大がどのようなメカニズムでもたらされたのかであろう。この「好況期」はもちろん一般の労働者にとって「好況」ではなかった。失業率が低下しそれまで弱い立場の労働者の賃金はたしかに多少上昇したが、一方で「マル金-マルび」という言葉が流行するぐらい、資産面での貧富の差の拡大が起きたことは記憶に新しい。この資産格差の拡大は減少的には資産価格の変化によってもたらされたものである。つまり、低金利の継続の下での景気拡大-企業利潤の増大(したがってその部分としての地代の上昇)によって、土地価格、株式価格など「架空資本」の価格が大幅に上昇した。その価格上昇は、それまでの合理化によって蓄積された利潤が設備投資に向かわず、貨幣資本の相対的な過剰が作り出されていたことが、いわば爆発する条件を与えられて起きたものだといえる。
 景気拡大は、70年代半ばからの合理化の結果としての好況であった。民間設備投資は大きく盛り上がったが、その内容は土地投機と結び付いた物であった。そうはいってもこの景気拡大は90年代初頭以来の本格的な建設投資を中心とする設備投資の拡大によって特徴づけられるべきであろう。
 バブル崩壊の契機は、賃金上昇とそれに対応した金利の上昇(金融引締め政策)であり、それから引き起こされた資産価格全体の崩落であった。しかし、これは本質的な原因ではない。本質的なのはその前の過程で過剰な投資が行われていたことであり、そのことが不況の深刻化、長期化をもたらしているのである。

2.住宅専門金融機関の破綻


 資産価格の暴落により、94年以降、中小金融機関の破綻が相次いだ。95年は中小金融機関の破綻が連続して起きた年でもある。東洋協和、安全信組、コスモ信組、木津信組などである。その原因は一様に「バブル」時代の過剰な不動産向け融資や株式その他の投機の失敗であった。そして、金融機関としての破綻-倒産の引き金は、背景にある大銀行の「支援放棄」によって引かれた。
 今回の住宅専門金融機関の破綻も同様である。いわゆる「住専」=「住宅金融専門会社」はノンバンク(銀行業務でない)金融機関の一種であり、現在、今回整理することとなった7社のほかに1社の計8社が存在している。清算処理対象7社の貸付金の総計は10兆7196億円にのぼる。果たして、これは、これは「大きい」のか「小さい」のか? 現在の日本の国内総生産(GDP)規模480兆円からみれば2%である。年間の増分の規模と比較すれば大きいとはいえるだろう。しかし、連鎖的金融不安を引き起こすような金額であろうか? たしかに92年のような経済情勢では、連鎖的金融恐慌の可能性は存在したといえるだろう。はたして、96年の現在の情勢ではどうであろうか? この問いには正解はないかもしれない。極言すれば適切な金融政策がとられなければ、不況期にはいつでも金融不安の可能性は存在するのだから。問題は金融政策の対応を超えて危険性が大きかったのかどうかである。実際には94年の支出と予想される二次的損失の穴埋めに使われる財政支出は「金融危機」回避のために必要だったのか、という疑問が残る。
 もちろん、住専処理問題を抱えた日本の金融機関の信用にまったく問題がなかったわけではなかった。国際金融市場では、日本の銀行の借り入れに対してプレミアムの金利が発生した。つまり、信用の格付けが事実上下げられた。そうした状況を打開したい大銀行資本にとっては、やはり政府が公的資金を投入して金融機関の破綻を防ぐ姿勢をみせてくれることが必要だったのである。
 破綻した住専を処理するために、結局、国の一般会計から6800億円が返ってこない金として支出された。この額は、いわば事件の処理の経過に照らして大蔵省の責任に帰する部分として政治的に決まったかの印象がある。なぜ、母体行にあくまで負担を求められなかったのかは不明である。
 ところで、住専処理以外の金融機関の不良債権問題の方が規模は大きい。この処理は緩やかなペースで進行している。公定歩合0.5%という超低短期金利によって貸し付けや長中期債券運用との利鞘をひろげ、業務純益を拡大してそれを不良債権の償却に充てるというパターンである。これらの原資はいわば預金者の負担によって生じているといえる。この形によって、事実上の莫大な「補助金」が金融機関に注ぎ込まれているが、それでも処理には10年程度かかると言われている。

3.財政赤字の雪だるま的拡大の意味

 日本の財政状態の悪化は相当に深刻なものになっている。現状では財政部門の利払い費の増大は金利の低下によって食い止められており、雪だるま的な増大がすぐに起きるという状況ではない。しかし、このような状態を永続するものではない。国内人口の年齢構成の高齢化にともなって、今後は公的年金の給付が増大し、そのための国庫補助も増大する。さらに、80年代の税制「改革」で所得税の累進性緩和や利子所得への減税で資産家、高額所得者への構造的な減税を行ったことと、米国との協議によって決められた「公共投資基本計画総額630兆円」による公共投資の増加が予定されていることで、財政バランスは悪化の一途をたどることになる。こうした、公共投資の増大は利権の温床の拡大であり、そのことでますます政治の腐敗を加速させる。しかし、拡大再生産すなわち資本の蓄積を維持することのためにはこうした財政からの刺激は不可欠になってしまっている(図1参照)。
 赤字累積の現状を概観してみよう。一般会計の赤字額累積である国債残高は220兆円(95年度)となっている。しかし、これはあくまで国の制度会計における一般会計の負債残高であって、経済的に意味をもつ財政の負債残高ではない。国民経済計算における中央政府部門、地方政府部門の負債残高で捉える方が正確である。国民経済計算では中央政府で312兆円、地方政府で101兆円の総負債(94年度)が記録されている。これがいわゆる隠れ借金を含んだ数字である。ただし、一方で金融資産も保有しているのでこの分を差し引いたネットの負債は中央が180兆円、地方が59兆円(94年度)となっている。この負債に対する利子の支払いは14兆円(中央、地方、ネット)に達する(図2参照)。
 一方でもう一つの公的部門である社会保障基金(年金、健康保険など)は現在の人口の年齢構成を反映して黒字である。資産は220兆円に達している。ところが、これまでフローで黒字だった厚生年金などの社会保障基金部門が2010年代には高齢化によって赤字に転換する可能性が高い。これは金利等の動向にも依存するが、なによりも人口の年齢構成に依存しているのでほぼ確実といえる。そうしないためには年金保険料、健康保険料の負担を増やすか、給付を削減するしかないことになる。ただし、資産残高は簡単にはゼロにならないほど積み上がっているだろう。ただフローの黒字部門ではなくなってしまうので、2020年代にかなりの危機状況(財政赤字の雪だるま的累増->金利上昇->国内投資の停滞)を迎える可能性はある。
 一国全体の貯蓄と投資のバランスは、外国との関係で次のように定式化できる。
     貯蓄-投資=輸出-輸入+(純)要素所得(利子、配当など)

 貯蓄と投資のバランスが財政部門で崩れれば、そこから発生する超過需要が輸入を増大させて、バランスすることになる。このため、全体が赤字になればネットで外国から資金を導入できなければならない。そのためには、実質金利が高くなることが必要になる。このことは当然ながら国内の民間設備投資を抑制することにつながる。こうして、財政赤字の雪だるま的拡大は、国内の「経済成長」を抑制してしまう結果をもたらす。これは資本主義にとってのジレンマでもあるのだ。
 分配面では何が起こるのか。財政は高い実質金利での利子の支払いを増大させるが、この受け取り手は金融資産の保有者である。仮に、雪だるま的赤字拡大と金利上昇が顕在化してから、増税による財政緊縮を行えば、このことは直裁に税金から金融資産保有者への所得の流れを作り出すことになる。増税が大衆課税であれば、「持たざるものから持てるものへ」所得を再分配する効果を発揮してしまうことになるのである。
 民間の貯蓄がよほど増大しない限り、こうした財政部門のバランス悪化を国内でファイナンスしきることは困難になってくるだろう。このことからも、財政赤字問題の最終的に帰着する問題は「通貨問題」としての性格であることがポイントである。財政赤字の増大は、金融政策に対しても選択の余地を狭めさせることになる。赤字増大の中で金融緩和が続けられれば、大幅な円安へと為替レートを誘導する事になり、国内のインフレに火をつけかねない。これは、そのまま通貨の安定性を損なう事になる。 こうした事態への資本主義的解決の方法がすなわち「規制緩和」「行財政改革」である。第一には、財政による景気への刺激効果を高めるための公的部門の合理化措置である。第二には、規制緩和に名を借りた民間部門の合理化を促進する措置である。しかも、どちらかといえば現在の動向は、合理化のターゲットが機械化の推進による個別資本の相対的剰余価値獲得であるよりは、より競争原理の徹底による労働条件の全般的切り下げへと向かっている。これらの合理化の強化が財政問題の解決策でもある所以は、実は財政の苦境が日本資本主義の傾向的な利潤率の低下に根を持っているからである。

4.どのような政策が必要か

 大蔵省の金融行政は「護送船団方式」といわれてきた。信用秩序維持のためにひとつの金融機関もつぶしてはならないという意味である。こうした政策は80年代における金融の国際化ー自由化を背景にもはや限界に至った。その政策の転換の標語が「自己責任原則」というわけである。ところが、今回の住専処理では、この原則がいわば棚上げされた格好となったのである。預金者保護、投資家保護から「自己責任原則」へのシフトを目指した金融自由化は理念として破綻したといえる。
 バブルの責任として中央銀行の機能の問題が取り上げられる。86年以降の大幅な円高に対して超金融緩和の政策が採られ、また89年の引締めへの転換が遅過ぎた点について、政治や大蔵省からの介入が問題であったとされている。筆者は金融政策の誤りがバブル問題の本質ではないと考えるが、やはり中央銀行の独立性が損なわれている現在の体制の改革は、改良的政策課題として追及されるべきだと考える。そのためには形式的な独立ではなく、人事的な要素を含め日銀の改革が行われなければなるまい。
 大蔵省の問題についていえば、機能による分割は必要であるが、予算編成権を総理大臣ないし内閣に委ねたとしても、これは利権を温存させることに変わりはない。それよりも具体的な支出についてより透明度を高めさせることが重要である。具体的には一般会計、特別会計すべてについて予算書、決算書以上の細かい項目について、電子データでの情報公開が行われるべきである。こうして具体的に支出の中身についての分析を可能にすれば、国民の目にはっきりと財政の実態をさらけ出し、こちら側からの具体的、有効な批判点をより鋭いものにすることができよう。
 次に、なんといっても「規制緩和」への対応が問われる。独占資本の側の「生活者本位」のレトリックの嘘を個別に明らかにしていく努力が必要だろう。中でも、今年から来年にかけての決戦のポイントは金融持株会社の解禁問題である。(この点については10月増刊号の小論を参照されたい)。総選挙の結果を受けて保守の側は、97年度中の金融持株会社解禁を狙っていると伝えられる。
 さて、当面の財政問題についてはどのように考えたらよいだろうか。まず、労働者階級と独占資本との間の経済的利害の対立点はどこにあるのかを明らかにしなければならない。独占資本、ブルジョアマスコミの論点は、例えば「緊縮財政」か「積極財政」か、というような問題のたて方である。そもそもこういう問題のたて方が欺まん的と言わざるをえない。なぜならば、こうした問題のたて方自体に暗黙の資本主義のイデオロギー的立場が内在しているからである。ストレートにいえば、経済的利害の異なる国民諸階級を、「国民」という言葉に解消し、実態的には国民経済計算的な立場で、効率性と経済成長を求めるための方策として議論されるからである。そのために「緊縮」か「積極」かが議論されるにすぎない。この立場は、もちろん、資本家階級の立場である。
 公平性が問題にされる場合も同様であって、あたかも「平均的サラリーマン」だけでこの社会が成り立っているかのような議論がされる。例えば、財政制度審議会の報告書などで、今後の国民(実際は労働者)の負担の増加を求める根拠として、世代間会計でみた不公平が取り上げられている。あたかも平均的所得と平均的貯蓄をもつ「国民」だけが存在しているかのように。ここでも、現実=階級関係が無視されている。
 より具体的に我々の側の政策を考えると、一、財政支出において、公共投資について勤労国民の立場から具体的に事業の見直しを行うこと。軍事費を削減すること。二、歳入面では資産、財産所得への課税を強化し、勤労者レベルの所得税を軽減させること。消費税を撤廃させること。の二点が柱にならなければならない。
 ところで、公共投資の多くが地方公共団体が主体になっており、地方公共団体における事業の見直しなしに行えない問題である。財政を通じた国によるコントロールと地元保守政治家の利害によって地方公共団体の財政が如何に食い物にされていきたかを暴露することはその出発点になる。各地で問題になっている豪華庁舎問題などはその典型である。その一方で、地域の福祉、教育、環境対策などへの予算がどうであったのかを問わねばならない。これは、それぞれに個別的具体的課題を含んでいる。
 経常的経費のうちで問題なのは軍事費である。80年代の軍拡で、日本の軍事費拡大は聖域視され他の予算とは違う扱いを受けてきた。こうした扱いをやめさせ、軍事費の大幅な削減を求めていくべきであろう。
 税制については、消費税強化プラス累進制緩和がまったく勤労国民の利害に反すること、資産家のための税制でしかないことを訴えていかなければならない。そのためには、現状の資産課税、財産所得への課税がいかに軽いものであるかを指摘するべきだ。 例えば、数百億円の金融資産を保有する人もそこから得られる数億円以上の利子所得について源泉分離20%の所得税がかかるだけである。一方で、中堅サラリーマンの限界税率は20%以上になっている。このような不公平をただすためには、財産所得も総合課税という原則を貫く制度が必要である。ただ、徴税方法の問題として、資産課税、財産所得課税を公正に行っていこうとすれば、個々人の金融資産の保有についての把握が重要になる。そのために「納税者番号制度」のようなものが必要になるかどうか、慎重に検討されるべきだろう。
 資産課税の面では、地価税を強化すること。現状では、不動産不況が全体の不況の元凶のような議論があり、地価税が地価を下げ、不況に寄与したかのような議論がされた。地価税が地価下落に寄与したことは疑いがないが、景気に悪影響かどうかは不明である。逆に、ここ2、3年のマンションの販売好調は地価の下落によってもたらされたものであった。
 こうした政策はもちろん部分的な改良的政策の域をでるものではない、しかし、財政を巡っての階級的利害関係を際立たせるような「対案」でなければ、消費税プラス累進性緩和が勤労者の利害であるかのような敵の宣伝を容易にさせてしまう。そこを打ち破る「対案」づくりがポイントになるのだろう。


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