体育会系人材の真髄とは
こんな動画が回ってきた。
体育会系をプロテイン系ホモソーシャル猿と思っている人間が東京には多く、胸くそ悪い。違うんだ。
◯体育会系とは
体育会系の真髄は、
プロテインと虚栄心で無理やり膨らまされた筋肉でも、機能的な筋肉でも、理不尽に耐えられることでも、
モテることでも、また五大商社に新卒で入社できることでもない。
真髄は、鍛練されたメンバーシップ精神にある。
私は、体育会系人材を育てる日本の部活動は
これ以上ない高度の市民教育だと思っている。
部活動に力を入れた10代の数年間は、大人になればなるほど意味をもち、自分の人生の指針になっている。
指針になりすぎて、大人になってから会う人にも『なんかマッチョですね』と言われる。筋肉は残っていない。
逆もしかり、人と話せば、
彼らが吹奏楽部だったか、美術部だったか、個人競技の体育会系なのか予想がついてしまう。
この体育会系とは何か。
体育会系以外には謎のコード
体育会系の部活動に所属していなかった者には、なぜ就職活動で体育会系を求める会社があるのか、なぜ商社にはあんなに体重の重そうな体育会系が集まるのか、謎だろう。
よく芸術系の人間に体育会系について説明し、
驚かれることがある。
体育会系養成所代表である学校の運動部で学ぶこと、
その体験について、
なぜ体育会系が人から愛されるのか、書く。
◯部活動では何を学ぶのか
部活動では、人間関係、諦めないこと、毎日の小さな努力、プライドを捨てること、個人より団体の利益を考えて動くこと、栄養学、筋トレ、体調管理など多くを学ぶ。
水はちまちま飲みましょう。吸収率が~
筋肉をほぐしましょう。筋肉の成長のために~
諦めないでやりましょう、成功するまでやる!
こら、サボるな!
といった感じです。
脳に焼き付いた監督の言葉では
以下のようなものがある。
言葉だけでなく、
集団主義と精神鍛練を鍛えてくれるのは
大変ありがたい経験だった。
◯部活動とは集団生活である。
部活動では集団生活、つまりメンバーシップを学ぶ。
その中で監督やコーチから色々なことを教わる。
これらは全て、集団生活の部活動を通して習ったことだ。
それまで恵まれた身体によって個人競技で一人で勝ってきた私には、部活動という集団生活と、チーム編成は新しいミッションだった。個人の利益よりも集団の利益を最大化するように行動する事をたたきこまれた。これがメンバーシップであり、集団の中での個人、という考え方だ。
私は部活のために早起きして天気を確認し、
午後の練習のために水溜をスポンジですったり、
先輩が部活に集中できるように試合会場の場所取り、用具の掃除、先回りで雑用、を命をかけてやっていた。
部長の私が体調不良に陥った時はメンバーが代わりに指揮をして部活動が通常通り行われるように助けてくれたし、自分が先輩になった時は大変、戦略づくりと試合に集中できた。
◯メンバーシップの育て方
ひとりを通して全体を叱る
私が競争心ゆえに独り勝ちしようとした時、
目立ちたいがために練習で同級生を負かした時、
全く褒めなかった。
むしろ、意味を伝えず
『お前は外で素振り2000回やって』という負荷を指示した。恥を知るのだ。
私は上下関係に、逆らわないように言われていたので
ひとり運動場から出て2000回素振りを行い、平気な顔をして戻った。
周りは私が監督にいびられているのだと私に言った。
私にとって、運動場で練習できれば、
そんなことはどうでもよかった。
私は、いびられたのか、
なぜ基礎の素振りをやらされるのかさっぱりだった。
しかしこれは、監督の重要な教育だった。
私を後に部長にするための鍛練であり、
同時に周りのメンバーへの見せしめとして機能した。
一番真面目な人間を叱ることはメンバーの士気を上げる。これも体育会系の集団のための精神鍛練だ。
メンバーシップは高次欲求
生意気だった私は、
先輩がユニフォームを着ているのを見て、
中学一年の夏の地区新人大会前に職員室に行き、
『優勝したら青いユニフォームを買ってほしい』とコーチに頼んだ。
コーチは『お前が優勝したら一年生全員にユニフォームを買う』と約束してくれた。無事、優勝し、私が選んだ青いユニフォームを皆で着た。皆はなんでピンクじゃないのか、オレンジがよかった、と言っていた。
コーチのひとつひとつの指導の裏には
一匹狼の私をコミュニティに上手く入れるようにする意図があって、私個人の欲求を叶えながら、
それを連帯責任にすることによって、
高次欲求を叶えるように指導してくれていたんだと思う。
高次の欲求とは、
人との繋がり、チームまとめられるという自己実現であって、ひとり勝ちよりも本当に心が満たされることだった。
コーチは化粧っけのない独身29才理系出身の女性で、
当時のコーチと同世代になった今考えれば、
他の同級生と異なり恋愛の戯言も弱音も言わない私の気持ちがよく分かってたのかもしれない。
体験を伴った精神鍛練
一番価値があるのは、
学ぶ機会を得るまでの精神鍛練であったように思う。
1.言葉で言われて
2.自分で体験
言葉で指導をうけ、分からないことを体験として学ぶのはスポーツ及び部活動の文化に由来すると思う。
チームでは、ひとりひとりが大切な歯車なので
個人主義的に『やーめた!』が許されにくく、学ぶ機会を得るまでの精神鍛練が続く。
これが多くの文化系との違いなのだ。(間違うな、頭がよくリスク管理できる人間は文化系にも多い)
私の監督は、部員に言葉で教えてくれた。
言葉で伝わらないことは、口数多く伝えず失敗させることで伝えた。
14才の私が部長になったとき、
言葉で全く理解できず苦労したのが『責任』の概念だった。
コーチは部長になった私に、
責任を持ちなさい、とよく言った。
当時の私は、誰よりも部活動について考えていて、
朝練をする、練習日を増やすために職員に交渉する、テスト週間の自主練を可能にするためにテストスコアを上げる、部長として文武両道、後輩の教育、レギュラーメンバーの人間関係、保護者へのバス代の請求、のような、実践部分に対しての責任を背負うことに必死だった。
そのため、コーチの言う対外への空虚な『責任』が全く分からなかった。
⚫私の行動によって部のイメージが決まるなんて、いや、美人な部員の方がイメージ醸成に貢献するやろ、⚫私の行動はいい子であるべきなんて、私かどうか関係ないやろ、なんて思いながら表面上の求められる責任を演じた。
このコーチの言う責任については、
15才で県大会に出たときに初めてよく分かった。
コーチは礼の事を言っていた。
私は綺麗に審判や大会連盟の方に綺麗に挨拶できず、強豪のように端麗に動けなかった。この欠点はレギュラーメンバーがカバーしてくれた。
この本当のわからないままやらないといけない、という不確実に耐える精神鍛練はスポーツ系の部活動特有であり、これを経験しているかどうかで、その後の人との関わり方がリーダーっぽくなる、と大人になって思う。
◯体育会系がなぜ愛されるのか
社会で生きることは、人と生きることだからです。
人と関わるというのは、
個人主義のミクロ視点ではなく、
団体や他人に貢献する、というマクロの視点が有効です。
体育会系は、メンバーシップ精神かあるので
周りの人との関係に自覚的。
ちょっとやそっとのことでは逃げないし、
責任も背負うので、人生/ビジネスパートナーとしても友人としても最強。モテるのだ。
ただ、冒頭から述べている通り、
モテるのは、プロテインや筋肉、理不尽に耐えた、ホモソーシャル猿とか生物的で表面的な男らしさに由来するのではなく、上記のような社会的な理由だ。
個人の利益よりも集団の利益をを最大化すること、
それに耐える精神鍛練ができているから。
体育会系は就職活動でも人気なので、
企業に入ってうまく社畜になれます。よかったね。
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