「クナシリ」を見てきた。

昨年からずっと気になっていた映画がある。

2022年になって、ようやく見ることができた。

作品は1時間程度。私たち日本人が「国後島」と呼び、ロシアに対して「返還」を呼び掛けている、そんな島に暮らす人々にスポットをあてた作品である。

作品を手掛けたコズロフ監督の問題意識は、現代ロシア社会が抱えている矛盾を描き出すことにある。

この小さい世界の人々を捉えることで、ロシアの社会全体の問題をも表すことができるのだ。

出典:https://kounachir-movie.com/

また、当該作品について、ロシア人留学生も交えて交わされた意見交換会では、

「劇中で映し出される島の現状は、他のロシアの地域でも多くみられる。貧困はロシア全体の問題でもある」

との発言が、ロシア人留学生からあったようだ。

出典:https://www.moviecollection.jp/news/116620/

このことについても、個人的にはもっと掘り下げたい思いはある。しかし、ここは日本人の北方領土についての”語り”について少し考えたことを書き留めておきたい。

北方領土、という言葉を知らない日本人はいないだろう。小学校の社会科の授業で必ず扱うからだ。択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島、といった、個別の名前を覚えさせられた人も少なくないだろう。そして、これらの島々は日本固有の領土であるが、ロシアが占領しており、たびたび「返還」を要求している、という説明が続き、そしてそれ以上の説明はあまりない。日本人の北方領土に関する認識は、おおよそ上記のような説明内容と合致するだろう。北方領土に関心がある人であれば、いかに旧ソ連が”不法に”領土を奪取したのか、であるとか、元島民やその家族たちがどんな思いでいるか、であるとか、そういった認識を持つ人もいるだろう。安全保障の観点で語られることもありえる。

しかしながらこの作品は、そうした我々の”語り”が、政治的で、ナショナリスティックな、視野の狭いものであることを我々に突き付けてくる。今、クナシリには、12,000人の人間が暮らしている。ロシア国籍を有する彼らの暮らしは、戦後70年以上続いているのだ。これが現実である。

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歴史学や歴史教育の舞台において、誰の視点から歴史を描き出すのか、という議論については、多くの研究者や教育実践家による蓄積がある。これまで意識的に、ないし無意識的に捨象されてきた視点から再度歴史像を描きなおす営みである。力不足ながら、私も先達の蓄積から学びながら、そうした営みを積み重ねてきた。

良くも悪くも、教科書の”語り”は大味である。政治的である、といった方がよいかもしれない。限られた紙幅の中で、いかにして現代の日本社会が成り立ってきたのかを描くわけであるから、どうしたって時の社会の中心にいる権力者、ないしマジョリティの視点から語られることが多い。そこでは、被差別身分や琉球、アイヌの人々の視点は、相対的に少なくなり、いってしまえば周縁におかれることになる。たとえば、明治日本が近代化を進めていく中で彼らがどんな犠牲を払わされたのか、という”語り”は、”日本の近代化を肯定する語り”の中で、意識的に、あるいは無意識的に捨象されてしまうのだ。

こうした”語り”の積み重ねが、現在の日本社会における北方領土についての”語り”を準備したといっても過言ではない。私たちは日本から、あの島々を見て、語っているのだ。そこで暮らす人々がいる、という当たり前の事実から目を背けて。この事実と向き合わずして、北方領土問題の解決はない。

農業を営む別の女性は語る。「日本人がいなくてもここで暮らせる。日本人は私たちに島を返還しろと言うけれど移り住むつもりはない。彼らは漁業をするためにこの海域が欲しいだけなのよ」

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