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総長メモ(無料版)

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ここでは、頭の中にあるもの、頭をかすめた事、学んだことのメモなどをランダムに書いていきます。
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欧州のキリスト教社会の混乱の中で生まれた「信仰の自由」は、現実的に争いの絶えない一神教社会では実現出来ない。そこで、この「あれはあれ、これはこれ」の日本人の文化こそ、ゼロサム社会、閉鎖型地球社会のあり方だと思える。

マイケル・デルやスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが、なぜ大学を中退したかを考えれば、これからの社会は前例や過去に作られた解答が通用しない時代に入ったことを意味しており、自分の感性に基づいた判断力が何より重要になってきてることを示しています。

島国が生んだこの「あれはあれ、これはこれ」の文化は、地球が地球島型社会になってきている今、必要となってきている。すべてを受け入れるという日本のこの宗教観は、世界中から注目を浴びています。これは、全人類をうならせる日本人の宗教観なのです。

日本人の仏教は、日本教仏教信者、キリスト教は日本教キリスト教信者、儒教は日本教儒教信者である。それは、宗教が違ってもさらに、宗教を信じていない人も行動規範において皆ほぼ同じ。拝む対象が異なるだけの同じ伝統を信じる日本教徒だというのです。(日本教は日本を救えるか。 山本七平)

異民族、異教徒が混在する国際社会では、見知らぬ人を相手に自分を理解させる重要な情報が実は宗教。そのためにどの宗教も、その信者であることを示す行動規範(戒)が非常に重要となる。言い換えればどの宗教の信徒も、自分がどの宗教の信徒であるかを誰にでもわかるように行動で示す必要がある。

信仰心がなくても何のトラブルも無い日本はまったく特殊な社会。信仰心を示すことによって他人を安心させことは、多くの日本人にとって重要な行動規範である。

グローバルな社会では信仰心が相手を安心させる重要なシグナルになり、信仰心が無いと言うことは相手をもっとも警戒させるさせる情報。

世界的な一神教は、神以外信じない、排他的で独善的。人間に対しても、自分や家族以外の人間を基本的に信じない。大陸文化では他人を信じないのが常識。

密教が、対立的な考え方を本来は一であると繰り返し主張するのは、ミクロとマクロの世界の本質的な一体性を「瑜伽」の行を通じて直願する宗教体験を踏まえているからである。

天地万物あらゆる物の中に、生命を読み取る東洋的な思考を、マクロとミクロの一体化の世界観の中で理論化していった空海の論法は、理論的な思想に乏しいといわれる日本の宗教界の中では、極めてユニークな発想と言ってよい。

六大は仏の身体でもあり、行者の身体でもある。マクロの世界も、ミクロの世界も、ともに同じく六大よりなる。このような理論を構成して、マクロの世界とミクロの世界が、本質的には異ならないことが解き明かされている。

秘密の蔵に入っていくための必要な扉の鍵は、どこにでも転がっているわけではない。鍵を見つけ出すためには、自己の目を覆っている鱗を取り去ることが、まず最初に要請されるのである。密教は徹底した自己改造から始まることを、この密教という言葉がわれわれに示しているとみてよいでよいであろう。

顕教では、ものごとにかかった埃や塵を払って、見た目に素晴らしく映るように努める。それに対して、密教は外面的なことはさておき、ものごとの本質にまっすぐ入り込んでいき、本来の姿をはっきり掴み取るところに特徴がある。

特に何もしてないとき、脳内では「デフォルトモードネットワーク」が稼働している状態。
脳内の記憶イメージを整理統合分析などをしている、いわば、脳のスタンバイ状態。