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「Beautiful!」に感じた違和感

美しいものを美しいと思える感性にときどき嫉妬する。同じものを見ているのに、その感情の振れ幅がなぜこんなにも異なるのか。「これにこんなに感動できるのか!素敵だな!」って。でもその一方で「あ、なんか嘘っぽい。口だけだな。」って思うことだってある。

こないだ、WWOOFというサービスを通して、地元の方の家に泊めてもらう機会があった。そこの人は明るく、笑顔を絶やさず、エネルギッシュな方だった。なんにでもポジティブで、いろいろサポートしてくれた。その人と庭をバギーに乗って、ドライブしていた時、その人は何回もストップして、「ほら、あれ見える?Beautiful!」というのだ。蜘蛛の巣を発見しても、「見てみて!きれいな形!Beautiful!」。その後家に戻りランチのときも、「これは裏庭の菜園からとってきたオーガニックの野菜!Beautiful!」という。なんでだろう。違和感を感じた。なんにでも「Beautiful!」ということで、相対的に「Beautiful!」の価値が下がっているのか、それとも、そこに感情がともなっていないと感じるのかわからない。たぶん両方ともある。

でもこういうことってあると思う。他の例だと逆にみんなが良いといっているから良いと言ってみたり、その価値を身体で分からないとき、知識で賄おうとしたり。

ここの人は離婚と次の夫を早くに無くすという経験をしている。それが全てではないのだが、なんとなくそれに対するコンプレックスがあるように感じた。「私はそんなに不幸ではありません。」と無理にアピールしてるような感じがしたのは気のせいだろうか。

人は少数派になると、途端に喋り出しがち。アピールしたがる。「私の生活ってそんなに悪くないでしょ?」「こういうのっていいと思わない?」って。

でもそれって、なんか感じがよくない。もちろん、人は自分に降りかかってきた不運を受け入れ、時にこうだと思い込んでやり過ごすことも必要だし、少数派になってしまった自分が不安で仲間を探すことも必要。

でもそれは対処療法に過ぎず、効果は持続しない。どこかで本気で向き合い、その人なりに積み上げていき、その人なりにその人自身で納得していくしかないし、それは見せつけるものでもない。というかなるべく見せつけなくても良くなるまで深めていく必要がある。なるべくって言ったのは、どうしたって、人から認められたいっいう感情をなくすことはできないと思うから。

私がこうやって書いているのは、どちらかというと少数派の自分が不安で、アピールしているのかもしれない。その一方で「書く」という行為は、社会とのつながりを作ると同時に自分を掘り下げるきっかけを与えてくれる。

みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分がまともである、正解であると思える唯一の拠り所が、“多数派でいる”ということの矛盾に。

『正欲』 朝井リョウ

何かについて書くこと(批評)は、自己幻想と自己の外側にある何か(世界)の関係性について言葉にすることだ。

『遅いインターネット』 宇野常寛



とある海辺の町の今どきネット予約もできない小さなホステルに泊まった時の話。

そこには、ドミトリールームと芝生のちょっとしたキャンプ場があって、たくさんの人が”住んで”いた。その近くには農場がたくさんあってそこで働いているらしい。そのホステルにはBarが併設されており、そこについた当日は金曜日だったということもあって、3時から数人の地元客がカウンターでお酒を飲みながら楽しそうに話をしていた。

私はそこで支払いを済ませたを後、荷物を整理して、キッチンに向かった。キッチンの前には小さなベランダのスペースがあり、そこを通らなければならない。ただそこには、横を刈り上げ、タンクトップで、刺青びっしりな、体重120キロはあろうというおじさんの横を通過さねばならなかった。

ちょっと怖かった。ただ目が合った瞬間、素敵な笑顔で微笑んでくれた。その時は話しかけられなかったが、そのあともそこを何回か通らなければならず、ついに話しかけてみると、気さくな素敵な方だった。近くのキウイ農家で働いているみたいだった。「ここらはトレッキングコースがたくさんある。せっかくならいったらいい。クルーズもいいぞ。」といって、わざわざ車から5冊ほどのパンフレットを持ってきてくれた。

そして、「この浜はほんといいから、行ってきな。『Beautiful!』」と。私はそのおじさんのいう「Beatiful!」という言葉の響きが好きだった。




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