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不確実性を拒みながら、欲す

 私を含め、多くの人は不確実なことを不安に感じると思う。だからこそ不確実なことを減らして、不安要素を少しでも軽減するべく、科学技術は進歩してきたと思う。しかし、不確実なことが確実なことに変わっていき、ある一定のラインを超えると、人は退屈して、逆に不確実なことを求めてしまう。人間というのは本当にわがままで、よくわからん生き物だ。

 というのは、最近「インセプション」という映画を観て改めて思ったからだ。この映画を知らない人はあらすじを検索して欲しいのだが、簡単に言うと、夢の世界に意識をもっていける世界が舞台。そこでは現実世界に夢の世界が影響を与えるし、その逆もあって、そういったことから問題が起きる。分かりづらいかもしれないが、そんな話である。それでなにが言いたいかというと、このような世界では、現実に囚われず、自分が好きなようにコントロールできる、確実な世界を生きる権利を得ている。しかし、ここにいる登場人物は、どうしても”不確実で、問題だらけの、わずらわしい現実世界”にこだわってしまっている。当たり前と言われてしまえば当たり前なのだが、よく考えればおかしな話ではないだろうか。

 他にも具体例はある。今年読んだ本の中に「都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌」というのがある。

タンザニアの零細承認たちの社会は、私たちの社会とは異なる部分も多いが、よくできた仕組みの社会だなと感じたし、何よりも人間味のある社会であった。そんな本の中にこんなことが書かれている。少し長いが引用させてもらう。

近代的な組織であっても何らかの価値にもとづく共同体であっても、互いの関係を安定的なものとして、個々の行為に付随する不確実性を減少させていこうとする試みであることに変わりはない――そのめざす方向は正反対だとしても――。しかしマチンガ(タンザニアの零細古着小売)たちは、そうした安定性や確実性を確立し、強固なものにしていこうとする方向には向かわない。そのような制度化や規律化あるいは安定化を追究していく方向とは異なる回路で、共に生きる人びとがその日を生きぬいていけるようなしくみ――商世界――を築いているのである。

人間味を大切にする社会、機械や情報よりも人間が大切にされる社会、手段が目的化しない社会では、このように、ある一定のラインを超える前に歯止めがちゃんとかかるんだと思う。多分無意識だと思うが、感情というか、違和感みたいなのに素直に従っているのだろう。それに比べて、わたしたちの社会は、違和感を感じていながら、それを無視したり、なかったことにしたりしているのかもしれない。

 他にもキャンプという、いかにも不便で、予測不可能な事が起こるような体験をわざわざしたがるようになったのも、不確実性が求められていることの一つの根拠になるだろう。



 私は子どもと関わる仕事についている。そして子どもの世界も大人の世界同様に不確実性がどんどん排除され、いわゆる余白や隙間が少なくなっている。もちろんいい部分も多々あると思う。それでも失っているもの、子どもたちをかえって苦しませてしまっている部分も多々あると思う。だからこそ、勇気をもって、子どもたちを信じて、不確実な部分を取っておきたい。さらに言えば、どうしてもカチッと固めて、予測可能な方向に子どもたちをもっていかなければいけない時ですら、自分の言動になにかにじみでるものがあって欲しい(もしかしたら隙を見せてしまって、それが叶わぬ希望を与えてしまうことになるというか、子どもたちにとってはよくないことかもしれないなとは感じつつも…)。

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