見出し画像

ありふれた言葉。

先日、ある人に出会った。その人は分野が違う僕でも知っているくらい知名度のある方のもと学んでいた。だから気になっていくつか質問をしたんだけど、最後の質問とその仕方は本当よくなかったなと思う。

僕は、「すみません、なんかテンション上がってしまい、立て続けに質問してしまって・・・。最後に1つだけいいですか。『その人が教えてくれたことの中で一番印象に残っているものは何ですか?』」と聞いてしまった。

まず、前提としてこの場には僕以外に数人いた。そういう場での「最後に一つだけ」という言い方は、場の雰囲気を悪い意味で期待に満ちたものというかハードルを上げるような働きをした。さらに追い打ちをかけるように『その人が教えてくれたことの中で一番印象に残っているものは何ですか?』と聞くことで、そこにいるみんなは固唾を呑んでその回答を待つ状況を作り出した。

もちろん回答は立派であり、なるほどーと思うようなことであった。
しかし、しかしだ、何というか、ありふれた言葉に僕は感じたし、その場にいる人もきっとそうだったに違いない。なぜなら回答を聞いてから一瞬、『間』を感じたからだ。

その『間』のあと、人は急に喋り出す。「フォローしないと」と。僕ももちろんなんか言ったし、その場にいた他の人もなんか言っていた。そしてたまらず本人も慌てて補足説明しだす。なんてったって、自分にとったら一番印象に残っていることだから。そしておそらくみんなも同じように感心してくれると思って言ったはずだから・・・。

最悪だ。そう思いながら、「待てよ、自分は前にも同じようなことをしなかったか?」と前の記憶を思い出していた。



それでだ、まず当の本人には深くお詫び申し上げたいのだが、ここで言いたのはそういうことではない。謝るのは本人に直接言えばいいからだ。言いたいのは僕にもそれなりに印象に残っている言葉はあるが、自覚があるにしろ、ないにしろ、ほとんどがありふれた言葉であり、あるいは少しアレンジを加えた程度のものなんじゃないかと思う。

だからこそ、どんな関係のある、どんな人に、どんなタイミングで、どんな声色で、いわれたか。それがとても重要で、それによってありふれた言葉はたちまち輝き出す。

でもそういうことを共有することは難しいし、前回も今回実際共有できずに気まずい雰囲気になってしまった。

ここから思うのは、身近な人たちへの価値を相対的にもう少し高めた方がいいのではないかということ。やはり関係性の深い相手からの言葉はネットの友達やアイドルやスポーツ選手のような遠い存在よりからの言葉より傾向として刺さるものが多い。

その上でだ、僕は一見距離のある人たちからの言葉も大切にしたい。

ある本の中でこんなエピソードを見かけた。
その人は時々心が弱ってしまうことがあるが、そういう時に限って現れる3回程度しか会ったことのないオシャレなおじいさまに救われているということ。おじいさまはその人を見かけると、軽く会釈をし服装を褒め、立ち去ってしまう。たったそれだけのことがその人を救っているのだ。それは先ほど僕の言った身近な人ではないだろう。

他にも顔も声も聞いたことのない人の一言に救われる人もいるだろうし、アイドルやスポーツ選手の言葉に救われる人もいると思う。

上にはどんな声色と書いたが、声じゃなくて、むしろ文字の方が伝わることもきっとあるだろう。


つまり、身近な人たちへの価値を相対的に高めつつも、その他の“多様性“をしっかり確保することが大切だと思う。そして出た、出た、このありふれた言葉“多様性“。この言葉はとても曖昧で複雑で、多分人によって本当イメージがさまざまなものだと思う。だから次はこのありふれた“多様性“という言葉について書きたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?