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0 人生の中で、どれだけのテーマについて、それなりに深く考えることができるのだろうか。

 「人生の中で、どれだけのテーマについて、それなりに深く考えることができるのだろうか。」

 

 私は教育学部を卒業し、その後教育業界に5年間携わってきた。世の中に様々な仕事があるが、自分にとって、教育、特に学校教育に携われて良かったなと思うことは、様々な学年の子どもと接することや小学校であれば、多くの教科を担当することができるということ。それはどちらかというと飽き性の私にとっては都合がよかった。

 他の仕事だと、前に読んだ平野啓一郎さんの「ある男」の主人公が弁護士でいろんな人たちを担当していて、「あー、いろんなことを勉強できるのはいいな。」って、弁護士になるなんて不可能なのに、ちょっと思ったりした。

 そう言いながらも、職人さんの、一生を一つのことに捧ぐような生き方もとても魅力的に感じてしまうので、困ったものだ。

 ただ思うのは、どちらの道でも、真剣に深く関わっていけば、同じようなところに辿り着くのではないかということ。前者の場合、様々なことを知る中で、共通しているところや、異なっているところが分かり、その結果、中心的なところ(私の場合は教育)の理解が深まる。後者の場合は、言わずもがな深めていくことができる。

 もちろん、前者と後者の違いもある。前者の場合、様々な異なる体験が実際にできるが、後者の場合にはそういったことにも想像“は“できるということに限られる。その反対に、後者は長年の積み重ねによってでしか得られない技術・体感を得られるが、前者はそれを知識を得て想像することしかできない。そこに対話は成り立つかもしれないが、本当のところの感覚というものは共有できないと思う。


人生に多様性を求めている。

 私は子どもの時サッカーしかしていなかったため、自分のことをどちらかといえば、職人タイプだと思っていた。それに今思い出したのだけど、小学校の時にした、適性診断的なアンケートの結果もたしか「職人向け」だったような気がする。てかあれってあんまりよくないんじゃないか。でも、多分違ったんだと思うし、自分で自分をそう仕向けていたのかもしれない。実際のところはわからないが。

 今の時代、様々な専門家が生まれている。ユーチューブ、ポッドキャスト、ブログを見れば、好きなものをとことん追求できる人たちがごまんといる。それを見て、「あ、自分はそのタイプじゃないんだな。」と感じざるを負えないし、憧れがないわけではない。

 しかし私は思っていた以上に、自分が様々なことに興味があるみたいだ。大学生の頃、初めてこんなに時間を持て余すという経験をしたことで、その頃から本を読み始めた。最初はとりあえず、人気の小説を読んでみたり、自己啓発の本を読んでみたり、なんとなく、時間を潰すためだけに読んでいたのだと思う。
 それがいつの間にか、本の面白さに取り憑かれて、様々なジャンルの本を読むようになっていった。そして気づけば読むペースよりも、読みたい本が見つかるペースが上回り、Amazonの読みたい本リストが膨れ上がる一方である。

 それに似たところでいうと、私はどちらかというと、旅行好きだと思う。実際今ニュージーランドにいるし、この後も他の国を回るつもりで予定を立てている。こちらも調べれば調べるほど、実際に行く場所よりも、行きたい場所が見つかるペースが大きく上回る。

 様々な本を読んでいても、「多様性」は近年いろいろなところで目にする。そしていつの間にか、できるだけ多様な環境を整えることが教育にとっていいことだし、できるだけ多様な経験ができることが自分にとっての幸せの一つの基準になっていた。


多様であればそれでいいのか。

 ここでようやく本題だが、果たして、これでいいのだろうかと最近思う。「できるだけ多様なことをたくさんできることはいいことなのだろうか」ということ。「もし日々違うことができて、繰り返しのない日々が実現可能であれば、それを望むのかどうか。」ということ。

 私は、多様であれば多様であるほどいいのだと思っていた。森も、街も、価値観も、経験も。でも、なんか違う、最近しっくりこないのだ。できるだけたくさんの幅広いジャンルのことを知りたいなと今でも思うけど、「あれってなんなんだろう?」って思って少し検索して、調べて、なんとなくわかって、また他のことが気になったり、気になるように仕向けられたりして、調べて、なんとなくわかって。こんなことが繰り返された先にある多様な知識なんてものが本当に欲しいのだろうか。本はまだマシかもしれないが、例えば人類学の本を一冊読んで、心理学の本を一冊読んで、森林の本を一冊読んで、得た知識の多様性にもあまり魅力を感じなくなっている。旅もそう、例えば資金が100万あったら、多分世界の全大陸回れて多くの観光地に行けると思う。でもそれを望むのかと言われるとなんか違う。行ける国は少なくてもいいから、もう少し、じっくり一つ一つの地域を探索して、できたら地元の人と交流したい。まぁとはいっても、できるだけたくさんの国には行きたいなとは思うし、もしかしたら、人生という長いスパンで考えた時に、数年はでできるだけ薄くてもいいから量を稼ぎたいというのも、長期的にみたら人生の多様性の一部なのかもしれないのだけれど。

 ただそうなってくると、『多様性の有限性』みたいなものを考えなければいけない。いや当たり前だろみたいな考えだけど、私の場合「多様性の拡大」の問題は“お金“によって制限されていたと思っていた。お金さえあれば、できるだけたくさんの国を回りたいと思っていた。ただそれが、仮にお金の問題が解決されたところで、本当のところ望んでいなかったということ。(とはいっても、お金があったら、もっと行きたいところはある。)自分が「どれだけの多様性を確保し、どれだけの質を保ちたいのか」。これをじっくりと考える必要がある。


じっくり考える、自分なりのスピードで。

 そこでだ、私がこれからしようと決意したことは、1年から2年のスパンで、1つだけのテーマに絞って、じっくり考えようということ。テーマは私の専門である教育に関係があろうとなかろうと構わずに。もちろん教育という大きな枠の中には、どうしたって関係性が出てきてしまうものも多い。ただそれはそれでいいし、関係なくたって構わない。そういった側から、まずはじめのテーマに選んだのが「言語」といったわりと教育に関係のあるテーマになってしまったのだから、しょうがない。他に今思いついているのは、「森」、「酒」、「門」、「藍」、「色気」、「新しい」、「江戸」。
 他にも、音痴な私は人生のどこからで、1、2年じっくり「音楽」について学んでみたいし、1曲くらい何かピアノで弾けるようになったらカッコいいなと思っている。

 この計画に私自身ワクワクしている。そういうのが大切。ニュージーランドに来て思うのは、ワクワクしない決断は大概失敗している。もちろんこの短期間だけは、我慢していうのも時には大切だろうけど。

 さて、これから1、2年のスパンで1つのテーマを仕上げていき、仮に人生を80で終えるとなると、30〜45くらいのテーマを扱えることになる。100歳まで生きられるとしたら、40〜60くらいかな。それは私にはとても魅力的に映る。投稿的には多分断片的になると思うが、テーマを終えるときに、自分なりに1冊の本にまとめて、しかもそれを、物質としての本にしたい。なんか調べたら安く、本にしてくれるところがあるようなので、作ってみたい。それが将来の本棚に「2024−2025 言語」「2040 門」みたくならんでいたら素敵だろうな。楽しみです。

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