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それぞれの立場で正解はちがう

がん治療中の義父がどうしても孫と遊びに行きたいという。
最近のがん治療は県外からの通院、しかも外来加療が可能で義父の場合は通院先の病院近くにわたしたち家族が住んでいた。ということになる。(偶然なのかだから選んだのか‥と考えると条件的にそのどちらもなのだと思う)
その治療の合間に祝日があり、前述の流れになった。
なるべく移動が少なく、屋内で子どもたちも楽しめる場所を選び、念のためお薬手帳を持ってきてもらうなどしてその日を迎えた。
夕方から大谷翔平の応援をしたいというので、午前中に待ち合わせをして現地についたのはお昼前。
車から降りて、200mほど歩けば施設内に入れる‥という本来だったらなんでもないはずの道のり。
心踊る子どもたちは走ったり制止されたりしながら進む中、目の前で義父が胸を抑えて苦しみ出した。労作性狭心症。
ちらっと観たお薬手帳に狭心症に使うであろう薬が入っていたことを覚えていたので、救急車を呼ぼうかとパニックになりかける夫を無視して冷静に対処ができる。
程なく薬の効果で症状は消失。身体所見からバイタルの安定は確認ができたが、念のため加療先の病院に連絡し、本日は休診日、翌日受診予定であり今の状況であればそのまま経過観察、症状再発あれば救急外来受診の指示。
車椅子に乗せ、今日は一旦宿泊先のホテルに戻るという判断をすると、まあ義父がごねるごねる。
孫と遊びたい、自分のせいで子どもたちが楽しみにしていた予定を変更したくない。もうなんともない。
正直子どもたちは目の前の出来事に恐怖、萎縮している。思いやりのようで、それは自己中心的な考えからくる希望でしかない。
孫のことはもとより、自分のことを全く考えていない。
もういうこと聞かない患者だと視点を切り替え、わたしは命を守るためと強めの言葉を使う。
しばらくの押し問答が続き、黙って見ていた息子が「お母さんは心臓の先生だから、じいじいうこと聞いて」とあっているような、あっていないようなことを言った。
内容はともかく、彼のハートは真実であり、嘘偽りない言葉だった。
その真剣な言動に、義父も渋々とはいえホテルに戻る決断をすることができた。

今も義父は仕事をしている。
その自尊心は痛いほどにわかる。
それでも子どもたちと行動をしたことで何かあってほしくないのだ。子どもたちの心に少しの傷を残してほしくない。
わたしの方こそ自己中心的だし、義父への思いやりをこめた言動なんかできていなかった。

判断も行動も結果論でしかないし、それが良かったか悪かったかは、当人の大切にしたいものへの考え方からジャッジされるもので、正解は人の数だけ異なる。
世の中、その積み重ねで歪んだり正されたりしていくんだろうなぁ‥と目に見えない事実の積み重ねを感じたできごとでした。

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