認知症の人の気持ちを体感してみる:映画「ファーザー」の感想

この映画の感想を一言でいうと「混乱の中の正常な反応」かな。この映画は認知症について描かれているものだが、基本的に認知症を患っている本人の視点で描かれるため、時間軸が飛び飛びになる。さっきまでと言っていたことが違う、今までいなかったはずの人が当たり前のようにいたり、いなくなったりしている。だから、映画を見ている僕らも混乱する。同じように映画の中の父も混乱している、それは同じ視点で見ている僕らも同じように混乱しているから、父の気持ちがよくわかる。この映画は認知症の人の気持ちをその本人の視点で描くことで、共感させる映画だ。急に泣き出したり、不安になったり、怒ったりするから、周りの人は訳がわからないけれど、本人の中ではその反応は正常なもので、整合性がとれている。だけれども、病気なのだ、介護が必要なのだ、混乱しているのだと言われる。そしてそれは事実だ。病気のせいで、記憶が抜け落ちてしまっていたり、過去の記憶と今の記憶、自分にとって都合のいい出来事とを混乱して混同してしまっている。だけど、映画を見ている僕らも、父も、実は整合性の取れた反応をしている。本人は正常でいるつもりなのだ。なぜなら、自分の中で起きていることは本人の中では事実だからだ。

本人も何かがおかしいことに気づいている。だけれど、自分が狂っていると認める人間がいるだろうか。それは今まで正常に生きてきた人間にとってはとても恐ろしいことだ。ならば、自分は正常だと偽って生きているほうが楽。僕も一時期病気で苦しかったからよくわかる。だけど、本人が感じる違和感を拭うことはできない。


この映画では、本人の視点とは別に、周囲の人の苦しみも描かれていた。本人も苦しいが、周囲の人も苦しいのだ。
その人にはその人の人生がある。だから、アンの夫の気持ちはよくわかる。アンに配慮したい気持ちがあるから、同居を決定したのだろうが、それで夫婦の関係性や自分たちの生活にまで影響がでてくると苦しい。夫が大事に思っているのはアンであり、父ではないからだ。そして、アン自身も傷つき、疲弊している。家族だから、支えて当然、一緒にいて当然、というのは綺麗事だ。とても難しい問題だと思う。介護という視点で見るなら、これは多くの人にあてはまる問題だ。互いの生活や尊厳を大事にしながら、よいバランスを見つけるというのはとても時間がかかることなのだろうと思う。
そういう周囲の人の苦しみも描かれていて。つまり、現実だよね。まるで夢の中にでもいるような本人と、それを現実で支える周囲の人、両方の苦しみが描かれていてよかった。

この映画では、記憶についてもよく考えさせられる。昔「ファスト&スロー」という本を読んでいた中での問いかけを思い出した。その問いかけとはこんな感じ。
「もし旅行にいくとする。1週間の旅行だ。楽しい休暇になるだろう。だが、1週間後、その記憶はすっぽり抜け落ちるとする。それでも旅行にいきますか?」聞き方は違うけど、内容はだいたいこんな感じだ。記憶がなくなるとしても、旅行に行く意義を見出せるだろうか。仮にその瞬間が楽しいものだとしても。

人生とは、過去の記憶の積み重ねだ。もし、過去の記憶が消えてしまったら、今まで何をしていたのか、どこで誰と過ごしていたのかわからなくなったら、とっても不安だし、時間が飛んだような感覚になるだろう。ファーザーではその不安が描かれていた。映画という尺に収めるためには、映像を編集してカットしなくてはならないのだが、そのカットがこの映画では記憶をカットするような行為となっており、効果的に働いていると思う。

認知症の人の気持ちは認知症の人にしかわからない。おそらくこの映画を作った人も、周りに認知症の人がいるのだろうけど、それは膨大な観察や取材によって「こうかもしれない」と想像した景色だ。人によって症状も違うだろうし、不安に思う部分も違うだろう。だけれど、認知症患者の一見すると理解に苦しむような発言に対して、そこに共感や配慮をもって接する、あるいは理解する手助けになる映画だと思う。それは、僕らがこの映画を通じて認知症患者の不安や痛みや苦しみを追体験するからだ。
僕の周りには認知症を患った人はいない。だけれど、とても身近な問題だし、自分含めていつこういった症状に襲われるかはわからない。もしそういうときが来たら、僕はこの映画を思い出すと思うし、そうしたい。

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