疑心が怪物を作る;映画「怪物」感想

沖縄の友達の家に遊びに来ていて、いつも集まっている4人で映画をみた。僕はどっちかというと映画は一人で見るのが好きで、親しい友達と集まっている時間はゲームや雑談をしながら過ごしたいのだが、映画を見たいという流れになったので乗り気ではないがみることにした。結論、めちゃ良い。そしてこの映画は複数人で見れば見るほどいい。その理由はあと書く。映画の作りの良さ、巧妙さ、そしてなぜ怪物というタイトルなのか。映画という手法で何かを伝えようとする姿勢にすごく感銘を受けた。だけど、あんまりにもベラベラと喋りすぎるとなんだか押し付けているみたいだし、なぜかそのあと異世界居酒屋のぶを見始めているので僕は少し居間へと抜け出しこの映画の感想を書いていくことにする。

さて。まずこの映画を一言で表すとすると「疑いの連続」だ。ミスリードの連続と言ってもいい。見るパート、見る立場ごとに、怪物が変わる。化け物が変わる。そして、それは映画を見ている僕らもそうだ。
 最初の母親のパートは学校側、担任がクソ人間に映る。実際対応はクソなのだが。しかしそれはあくまで、子を思う母親からの目線だ。
 水筒から出てくる石、なくなった靴、突然切った髪の毛。そういう断片から、母は息子がいじめを受けていると確信する。映画を見ている僕らもそう考える。そして、その確信を疑うことはない。なぜなら自分が見ているものが全てだからだ。

パートが変わって先生の視点になる。いじめている生徒と、いじめられている生徒。その現場を目撃してしまう。加害者の生徒の母が学校に怒鳴り込んでくる。母はモンスターペアレントだ。本当の被害者が別にいる現状に先生はうんざりしてしまって、お前の息子がいじめを行っていると言ってしまう。
 先生は少し子供っぽいところがある。良い先生なのだが、デリカシーにかけていたり、物事の本質を見失ってしまっている。本当の加害者は別にいて、先生が勘違いしている生徒の関係は、どの生徒よりも親しい関係だ。でも断片だけを拾い集めて確信を得てしまっている先生はその事実に気づけない。現に生徒二人からは、先生は気づけないと言われてしまっている。鈍感なんだよね。
 世間は、暴力を振るうやばい先生だと誤解する。いや、先生は会見の場で言われもない罪を自白してしまったので、ここに関してはそう思われても仕方がないのだが。でも実際の事実は違うのだ。

子供達のパートになると、実は今までの疑念が誤解だと気づく。本当は当人たちの間にいじめの事実はない。それどころか、お互いがお互いを気にかけている。

僕自身、そして映画を見ていた友達も、誰が悪い、誰が真犯人と色々と考察をしたり、確信を持って非難したりする。でも見る角度、立場が変わると意見は180度変わる。そんなことを何度も繰り返す。一体誰が正しくて何が真実なのか、それを把握するためには俯瞰した視点から情報を整理する必要があった。僕たちも、映画の中の登場人物と同じように疑いを続けるのだ。

映画の最後、結局、誰が怪物なのかはわからなかった。明らかに頭のおかしい大人はいるのだが、その人たちあるいは特定の人物を「怪物」と呼ぶのは雑な気がする。だから僕の結論は、大人の汚い疑念こそ怪物なのだ、と結論づけることにした。きっと作者が言いたかったことはこういうことなのだろうと。
 でないと、この映画がこんなにもミスリードで溢れていることに説明がつかないし、この疑念を怪物と読んでみるのはとても面白いと思うから。

それに、僕はこの映画をもう一つの視点で見ていた。それは子供の純粋さだ。それは映像表現によく現れていたと思う。子供のパートの時、とにかく画面が鮮やかで眩しいのだ。青空、葉っぱ。とにかくわざとかと思うくらいに眩しいし、かわしている会話や行動もとても純粋で尚且つ危なかっかしい。そういう大人の疑念、汚い感情と対比して描いている気がして、だからこそ誰かを疑ってかかることが怪物なのだと考えることができるのではないだろうか。

本当にどうしようもないくらい汚く見える人間にも純粋な一面があるように、完全にいい人なんていなくて、でも多くの人はその一部をその人の全てと思い込んだり確信したりして過ごしているのだろう。平たくいうと偏見で満ち溢れている。もし何か正しくものを見極めたり、正しくその人を知ろうとするのなら、いろんな角度からその人を知っていくことが必要なのだろう。でないと僕らは簡単に人を決めてつけてしまうのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?