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点と線と旗

壁にぶち当たって死ぬハトのように生きれたら随分楽だろうなと思う。飛んで火にいる夏の虫みたいに生きれたらいいなと思う。ただ、ぼくらは人間なので、もしハトだったらビル街は危なそうだから飛ばないし、虫だったら、そもそも火には近づかない。危険を事前に予測できるからだ。

人間が持つ優秀な能力の一つに、未来予測がある。未来予測があるから、今後の生活のことを考えて働いたり、なにかトラブルが起きる前に未然に対処できたりする。

明日明後日、一年後、そして、老後、そして、死後まで予測できる。解像度はまちまちだし、当たるかどうかは別として。僕は科学者、研究者ではないのでこの能力の恩恵をどこまで受けているのかは分からないが、人類の進歩、生存に欠かせなかった能力だろうなと思う。

ただ、この未来予測には大きな副作用がある。「不安」だ。

たとえば「いつかお金がなくなって食えなくなるかもしれない」と予測することで、せっせと働くわけだが、同時に不安によるストレスもかかっている。

身近な人や自分の死を予測するとなると、よりストレスは大きくなるだろう。未来を見ようとすることは自分が後悔してしまわないために、困らないために必要なことでもあるが、悪い面もあるのだ。

未来を見すぎると不安になる。だから、たまにでいいと思う。自分の歩いている方向が間違っていないか確認する程度。さっと確認したら、足元に目を向けて歩くのがいい。

例えるなら、登山に近い。きちんと頂上へと歩いていけてるかを確認したら足元を見ながら淡々と進むのがいい。ずっと頂上を見続けていたら先行きの長さにつらくなる。

ようは、生活や今日一日に目を向けるということだ。未来に起きるある出来事や起きるかもしれない出来事を見すぎないようにしたほうが楽になると思う。
 
 今日に目を向けるのは意識的にやらないと難しい。ぼんやりしていると不安の旗を見てしまうときがある。不安の旗とは、不幸な出来事が起きる、もしくは起きる可能性がある「いつか」を示すものだ。それは大切な人との突然の別れかもしれないし、今いる環境を失うことかもしれない。人によってそれぞれ違うと思う。
 
 不安の旗を見続けると、今この瞬間と「いつか」がワープして繋がってしまう。起きてもないことに不安になってしまう。悲しい気持ちになる。不安の旗はたまにちらっと見る程度でいい。
 
 僕らが日常的に見るべきなのは、旗ではなく、今この瞬間のはずだ。今立っている足元のはずだ。でないと、今日という日を濁った色にしてしまう。何を見ながら歩くのかはとても重要なのだ。

人生は今日という日々の連続でしかない。人生を八十年生きると考えると約三万日。

一日一日を「点」として考えると人生は三万個の点が連なった「線」のようなものだとも考えられる。線の色こそ、人生の色で、線の色を決めるのは点の色だ。だから、なるべくきれいな点を打てるようにしたほうがいい。今日を見るか、旗をみるか、点の色はそこに大きな影響を受けている。

未来に怯え、不安になるのはなんだかもったいない。真っ黒の小汚い線になってしまう。僕はできるだけ鮮やかな線を描きたい。そのためには、今この瞬間の喜びをかみしめていたいのだ。

勘違いしないでほしいのは、逃避として日常を見るのではないということ。見ないようにすることは、見てることと同じだ。それは鬼ごっこの最中に鬼の存在を忘れられないようなもの。逃避として日常を見るのではなく、日常を見たいから日常を見るという自然な感情にのっとる方がいい。
 
 むしろ見ないようにするという意識よりは、積極的に見るという意識のほうがいいと思う。「逃げる」or「戦う」のベクトルから降りたほうがいい。ゲームに参加しない方がよいのだ。
 
 自分が今、いかに幸せかを考えないほうがよいのと似ている。幸せかどうかの尺度を持つということは、同時にその尺度で不幸も測れてしまうということだから。自分が不安から遠いことを知れるということは、同時に不安に近いときにも把握できてしまう。つまり、尺度を持たないことこそが勝ちということ。知らぬが仏とはよく言ったものだ。

もちろん、不安の旗を見ないで今日を見るということは口で言うほど簡単なことではない。ただ、自分が不安な気持ちになっているときに、目の前の今を積極的に見るようにすれば随分楽になるように思う。足元にある花を見よう。

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