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書くことが無いということを書くということについて書くこと
もう書くことがねんだわ。
:おわり
日記に書くことがない――
日常を文章として残そうとしたとき、真っ先にぶちあたる問題ではないだろうか。
何かを書こうと思えば思うほど、書くべきものが無いという事実が浮き彫りになって呆然とする。
空っぽの冷蔵庫をなんど開け閉めしたところで空っぽなのは変わらないし、いたずらに電力を消費するだけなのが道理だ。
「ならば『冷蔵庫が空っぽである』ということを書きなさい」
書くことがないなら「書くことがない」と書けばいいんだよ――と、どこかの誰かがはるか高みから言う。
まあ理屈はわかる。
ようは書くことの習慣づけが目的なのであって、肝要なのは書くという行為そのものだ。そこに内容の質や多寡は関係ない。それは計画的な計画倒れという計画の遂行であり、いきおい失敗は予定された実装として成功する。
そういう行動ハックの一つなのだろう。
その理屈はよくわかる。
――でもなあ……冷蔵庫は空っぽのままなんだわ。
いやもう比喩をとっぱらって率直に言えば、生活も頭の中もマジで空っぽなのだ。そしてそれこそが、自分の「書くことがない」ということに対する危機感の本質的な部分なのではないかと思う。
空虚な人生を送っている。
空っぽというのは創作を目指す人間としては致命的である。
白紙の原稿を何枚めくったところで物語は始まってくれない。
まっさらな紙に「これは白紙である」と書き記し、
「みろ、これは白紙じゃあないッ!『白紙である』と書かれているッ!」
と叫んでみたところで何も起きない。白い目で見られるだけである。
別に誇張して言っているわけではない。
本当に、何も無いのだ。
だから日記に書くことが見つからない。
マジな話し「今日はコーヒー2杯飲んだ」とか、そのくらいしかない。
日記としてはそれで良いのかもしれない。
だが創作を志す者として、やはりちょっとマズいのではないかと思う。
ネタが無いなら無いでネットから話題を拾ってきて書け。
ごもっともな提案である。それも一つのテだと思う。だが実際問題として、皆がワーワー言ってるところに乗っかるというのが、自分はどうも上手くできない。
「すでに誰かが言ってることを、ことさら自分が言い直す必要もない」
というスタンスで物事を捉えてしまうところがある。
これもまた悪癖の一つで、なんとなれば創作においてもそういった姿勢が発揮されてしまうからだ。
人に小説の相談などすると「人の多いジャンルでやれ」とアドバイスを受けたりするのだが、こうした性格のせいで一向に気乗りがしない。
無論、創作ではそういった逆張り的な精神も武器になるはずだ。だがしかし、どんなに鋭い刀を手にしようとも、それを振るうには技量とセンスが必要とされる。そして、自分にはそれらが無い。
ようするに「書くことが無いのではなく、書けないのだ」ということを認めるのが怖いだけでは?
約1000文字にわたって支離滅裂な言い訳をつらつらと述べて来たが、結局はそういうことなんじゃないかと思う。
いやまあわかるよ、うん。
インプットが足りないとか、気合と根性に欠けるとか、四の五の言わず書けバカとか、それすらできないなら辞めちまえとか、まったくその通りなんだよな。
だがそれでも、空っぽの冷蔵庫みたいな人生でかろうじて残った「味のするもの」が「書くこと」である以上、それで糊口をしのぐしか無いのだと思っている。
――さて、いよいよ何を言ってるのか自分でも分からなくなってきた。
ざっと見返してもやっぱりよくわからない。構成もクソもない。文章の上手くなさが存分に出ている。自分でも匙を投げたくなる。
なんにせよ、「書くことが無いと書く」ことは達成できたと思う。しかしこうして「ひたすらクダを巻いて誤魔化す」というカードを早々に切ってしまったわけだが、こうなると次が厳しい。ニ回目にしてもう後がない。
まあ、タイピングの習慣をつけるのが目的だし、これでヨシとしたい。
……原稿やろ。
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