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サッカーはやめてしまったけれど その10【失意の高校総体】

1990年の高校総体。OB達から歴代最高のメンバーと表された僕らは、静岡県東部地区大会の予選で苦戦を強いられていた。静岡県立韮山高校サッカー部創設者の澤野先生(プラモデラー史周の父)と、その教え子である韮山高校OBの植松さん(三島二日町人工芝グランドの立役者)達が中心となり、静岡県にあってこのサッカー不毛の地、伊豆にサッカーを根付かせた経緯があって、僕らの世代はその一期生という感じだった。だが、当然同じ地域の他校も同様に彼らの少年サッカーの教え子達で、互いに競い合っていたからだ。

冷静沈着な主将CB鳴松。中盤の生真面目なダイナモMF三輪、そして当時の最新システムだったツートップの暴馬・伊藤と恐竜・山川(自分です)が左右縦横に走り回るのを、サッカーセンスに溢れた司令塔のMF辰野(時々蕎麦宗にいます)が操る。でも、一度ズレてしまった歯車はどこか噛み合わない。結局一次予選を満足いかずに終え、勝てば県大会が決まる決勝トーナメントの一回戦の相手は宿敵・富士高校となった。

終始互いに譲らぬ展開は富士高の先制で破られる。後半、辰野からのプレゼントのような正確なコーナーキックを、自分がダイレクトジャンピングボレーで決めて同点(今も伝説のシュートです、と自慢しておこう)。しかし、膠着のままPK戦にて雌雄を決することになった。

両者ともすんなりと進み、最後のキッカーは韮高主将・鳴松。プレッシャーは半端じゃなかったと思う。嫌な予感がした。左隅を狙ったゴロ球はキーパーに防がれる。試合終了。歓喜に沸く富士高の選手達。崩れる韮高イレブン。試合後、僕は止まらぬ涙を隠したくて、伊藤と二人グランドの水道でずっと頭から水をかぶっていた。

敗者復活戦に進んだものの、僕らにはもう、戦う気力が残されてはいなかった。ついぞ目標は叶わず、まさかの予選敗退。県大会に進むことすら出来なかった。最強メンバーと言われた学年は、結局何も結果を残せぬまま終わった。
30年も経つ今になって語っても仕方ないけれど、きっと何かが一つ、ほんの一つ足りなかったんだと思う。チームスポーツは得てしてそういうことがあるもの。多分*マリーシア。真面目に一生懸命なだけではサッカーとは言えない。

高校総体後も選手権(正月サッカー)へと続く秋の大会があるのだが、進学校ゆえに、皆区切りをつけ、ここでサッカー部の活動を終えた。しかし、僕はどうしてもこの結果を受け入れることが出来ずにいた。つづく

*マリーシア…ブラジル選手に代表される、サッカー必要なにクレバーさ。

#高校総体 #韮山高校 #静岡県立富士高校 #サッカー #部活 #PK戦



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