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正解だらけのクルマ選び その21【ランチアY⑥白バイと母の入院】

それにしても、8年間も乗っていると色々なことがあるものだ。決して楽しい話ではないが、まだ若く随分と苦労を重ねた時代の話も載せておくことにした。これもまた僕らとランチアYの歴史の一部。

2004年。蕎麦宗を開店する一年前は、修行の場《懐石八千代》を訳あって予定よりも早く上がり、三島駅前にあったアンドゥというカジュアルフレンチレストランの、カフェ部門や惣菜店での店長として働いた。バイトの身でありながら店長という風変わりな仕事形態だったのは、母親が体調を崩し、実家の専業主婦代わりをしていたからで、それはそれで料理の修行にもなった。一日8時間働いて16時に早上がりさせてもらい、妻と共に実家へとランチアYを走らせ、家族全員の晩御飯を作って食べての毎日だった。

その後、母親も回復し日常を取り戻せたと思いきや、勤めていた惣菜店の閉鎖が一年待たずに決まり、お払い箱になった。しばらくぷらぷらしていたら、妻の友人伝いに庭師の仕事が舞い込んだ。高校生の頃、建築に興味があってその道も考えていたり、横浜国立大学教育学部時代に本屋で出会った《ランドスケープ》という分野に心躍らせて、進路間違えたなぁと思ったり。そういった経緯等もああって、『料理とは畑違いな職種を経験するのも良かろう』と4ヶ月バイトした。この時お世話になった矢ノ下さんには感謝しかない。社長自らバイトスタッフを迎え入れるために、イプシロンが不釣り合いな文化住宅の我が家に挨拶に来てくれたのは、申し訳なくも実にありがたかった。それに、ここで知り合った庭師の仲間たちが、翌年蕎麦宗開店にあたっての造作を手伝ってくれることになったり、その一人松井さんのようにロードバイク仲間として共に活動するようになるのだから、人生どこでどう繋がるのか分からないモノだ。

そうして、蕎麦宗をオープンさせた2005年。この間も、ランチアYは僕らの日常の足として、また暮らしに《潤い》を与える存在として輝いていた。洗車やメンテナンスは手を抜かなかったけれど、相変わらず世話の焼けるクルマだったのは違いなかった。

何年目だろうか?。再び母親が体調を崩し慢性膵炎と診断された。胆石が原因で手術を要するとのことで、富士市の病院に入院してオペを待った。が、ある日いつも通りに店を営業してる最中、病院にいる父親から一報が入る。容態が急変したので緊急オペになる。場合によっては命も危ないという医者の見立てだと言う。『沈黙の臓器』と呼ばれ重要かつ不可欠な膵臓が絡んでいるので、ひょっとすると還暦手前の母親の一生が終|《ついえ》るかもしれないと思った。

慌てて店を閉めて、妻と共にランチアYを飛ばして富士市の病院へと向かう。場所から高速では遠回りなので国道1号線を行く。確かにスピードは出していた。しかし、そんな時に限ってまさかの白バイパトロール。赤色灯とサイレンに瞬く間に追い越され、目の前に停車して封鎖された。致し方なく止まる。しかしだ。母親にもしもがあった場合には、親の死に目に会えなかったことになる。『罰金ならいくらでも払ってやるから先に行かせろ』と息巻いた。ここに書けないくらいの悪態をついた。まだ若かった。

結局、僕らが到着した頃にちょうどオペも終わり、母親は無事一命を取り留めた。怒りは収まらないけれどヨシとする。でも、この出来事は後々の自身の運転に大きな影響を与えることとなる。

一般道であれ高速道路であれ、馬鹿みたいにスピードを出してかっ飛ぶクルマは、ままある。煽りは危険だし、腹立たしい。しかしながら、彼等にものっぴきならない理由わけがあるかも知れないではないか。あの時の自分のように。だから、意固地に道を開けない老人のようなことはハナからしないけれど、無用に腹を立てることなく道を譲るようになった。勿論、ただの暴走行為な輩もいる。それも緊急車両と思えば全てが許せる。その方が安全に自分の身を守ることができるだろう。

ランチアYという希少なクルマに、そして小さな高級車に乗るという事が、運転や振る舞いをも大人にしてくれたのだと思う。

#運転で気をつけること #煽り運転 #交通安全 #品のある振る舞い

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