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夜明け前のドゥカティその2【族車のプラモデル】

目指せスーパースター。蕎麦宗です。

子供時代に従兄弟の《哲ちゃん》達オートバイ乗りに憧れていた割に、僕の気持ちがなかなかオートバイへと向かわなかったワケがある。それが《暴走族》だ。

日本の高度経済成長がオイルショックによって終わり、そこからバブル景気・崩壊へ向かうまでのこの間(1973〜1991年)、ヤンキー文化の一つとして《暴走族》が若者に流行った時期があった。クルマやオートバイをド派手に違法改造して集団で道路上を練り走る。深夜の爆音、縄張り争いの喧嘩、触法行為への陶酔…。それらは、戦後色濃く残る軍国主義と経済を立て直す為の仕事中毒ワーカホリックや、若者・子供達への威圧的または及び腰な態度といった、そんな大人達に対峙する、若者達の反抗だったのだと思う。

中学2年生の時。週一のクラブ活動という3学年合同の授業があって、僕は模型クラブに入っていた。学校でプラモデルを作って良い!なんとも素晴らしい時間。その際、先輩の数人が《族車》のプラモデルキットを製作しており、*竹槍を付けたりロングシートを紫に塗ったりカウルをそっくり返して喜んでいた。それを見てつい口走った僕の一言が彼らに聞こえてしまった。

『ダサっ』。

今でこそ美意識は人それぞれの嗜好があるので、『その趣味趣向に口を挟んではいけない』と分かっている。しかし、若かりし頃の僕はそれら族車はなんとも異形過ぎてカッコ悪いと思っていた(この辺りを《美術=アート》の視点から見ていくと面白い気がするので、誌面をまた別にして語ろうと思う)。しかも、イタズラ小僧のクセに何故だか倫理観が強かったので、暴走族や不良が嫌いだった。がんじがらめの中学生生活は彼等の破廉恥が原因だと逆恨みしていたからだ。

さて、大変。後日、*体育館の便所に呼び出される。先輩達は怒り心頭だ。一髪触発。でも、そこへ助け舟が入る。少年サッカー時代から仲が良かった先輩のまもるちゃんが、用を足しにたまたまそのトイレに来たのだった。彼は仲裁に入ってくれ、僕が謝って事なきを得た。僕も安堵した。られなかったからではない。自分が暴発せずに済んだから。

中学生になって大人にならなきゃって思っていたあの頃、腕力は強かったけれど暴力は好きでなかった。なので【サッカーはやめてしまったけれどその3】に書いたように、学校での抑圧された窮屈さをなんとか暴発しないようにいつも手懐けていた。でも『キレたらヤバイ』と自分でも辛うじて感情をコントロールしていた。思春期だった。

そんなわけで、オートバイ=族車=暴走族=非行少年という図式がすっかり出来上がってしまい、それらは一緒くたに嫌悪の対象になった。なのでしばらくの間、オートバイに興味を持つことはすっかりご無沙汰となった。

*竹槍…マフラーを長〜く伸ばして立ち上げて取り付けること。

*体育館…しばく・ボコる、しばしば暴力や喧嘩は人目につかない体育館の裏とかトイレだった


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#思春期を見守る #オートバイ #異形のデザイン #尾崎豊


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