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メロス3:蜘蛛の糸をするする降りるとそこは雪国だった、名前はまだない

 ある日の事でございます。女神アテとお花大権現が極楽の蓮池のふちを、二人連れだってぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな眼がちかちかするようなショッキングピンクで、その真ん中にある銀色の蕊からは、なんとも云えない色欲と食欲と名誉欲と独占欲を引き起こす匂いが絶え間なくあたりへ溢れております。極楽はちょうど昼なのでございましょう。
 ふとお花大権現が歩みを止めて、池の中を凝視しております。気づかずに数歩先を行ったアテが振り返り、どうなさいました?お花さん、とお花大権現にお声をおかけになりました。お花大権現は答えません。じっと池の中を見つめたままです。
 池の中などみても何も面白いことはないでしょう?地獄でも見えて?アテは尋ねます。
 いいえ。もっとおもしろいものが見えてよ。お花大権現は生き生きと目を輝かせて池の中を見つめたまま顔も上げずにアテにそう言いました。
 何を見ていらっしゃいますの?アテはお花大権現のところまで引き返し、横にならんで池の中を見下ろしてみました。池の底には現世(うつつよ)が見えました。それはお花大権現のやってきた日本という国の、関西と呼ばれる地域にある大きな建物です。その建物の中にはやけにたくさんの老人がいました。
 なんですの?ここは?随分老人が多いわね。アテはお尋ねになりました。
 老人ホームのようなものよ、とお花大権現はお答えになりました。
 みて、あの老人、ベッドに横たわった老人よ。昔わたくしが願いをかなえてやった人なの。
 願いを?あなたが叶えたということは、つまりは好きな人とセックスがしたいとか結婚したいとかそういう願いのことね?
 ええ。あの老人が育った村には夜這いの習慣があったのよ。夜這いってご存知?あら、女神アテともあろうお方がご存じないの?それはそうよね。ギリシャから遠く離れた小さな島国の風習ですものね。この国のこの老人が育った地域には昔、若い男の子たちの集まる若衆組っていう組織があって、そこで、お前はだれ、お前はだれと家柄ごとにどの男がどこの家の娘と縁を結ぶか決めていたのよ。相手が決まったら、男たちはそれぞれ決められた娘の家に深夜こっそり侵入するの。お勝手や裏の引き戸の桟に男はおしっこをひっかけるの。そうすると引き戸が音を立てずにすっとひらく。そしてこっそり娘のいる部屋に忍び込んで、娘と強引にまぐわうのよ。これが夜這いよ。娘は娘で、年頃になればそういうことがあると親から話を聞かされているからむしろ時期になると、自分のところに夜這う男があらわれてくれるか不安がる、そういう地域だったのね。若衆組であの男は昔から好いていた隣の娘を夜這いたいとみなに言ったんだけど、貧しい家の彼は娘と家の格が合わなくて組から認められなかったのよ。じゃあ、おれは誰をも夜這わないというと、今度は他の男衆からバカにされた。それでも男か、根性なしが、お前はちんちん生えているのか、と蔑まれたらしいのよ。結局隣の娘は他の男に夜這いされて、その男と結婚することになった。ところが男は諦めきれなかった。娘とやりたくてやりたくてたまらなかったのね。それで、私のところへお参りに来たの。今はすっかりよぼよぼになっているけど、当時はなかなか男前だったのよ。今から90年前の話よ。
 最近の話じゃない。あなたの国ではそんな野蛮な風習がそんな最近まであったの?
 もちろん例外的な地域だったのよ。もっと昔はあちらこちらの農村にそういう風習があったのだけど。都会にはそんな風習もちろんなかったわ。あの頃にはもう地方にもほとんど残ってなかった。でもものすごい山奥のごくごく一部に遅くまでその風習が残っていた特殊な地があったのよ。え?私の地元じゃないわよ、別のところ。遠いところからわざわざ私のご利益を聞きつけてあの男はお参りに来たのよ。それだけ隣の娘とやりたかったんでしょ。男前だったし熱心だったの。近くの旅館に泊まりこんで、来る日も来る日もお参りに来たのよ。隣に住んでる○○ととにかくまぐわらせてくれと、一日もかかさずに、ひと月も通ってきたかしらねえ、熱心にお願いされたわ。なんだか私、その一途さにあの男が好きになっちゃって、それである晩、旅館に寝ているあの男の夢枕に立ったのよ。わかった、お前の願いは必ずかなえてやる。だからその娘とまぐわう前にまず私とまぐわえ。それから私はあの男のズボンを脱がせて、下履きもひっぺがして、私はあの男の上に跨って……
 なかなかおもしろくなってきたわねえ。でも昔の話でしょ?今池の中に見えるのはただのおいぼれで、男前でもなんでもない。どころかほとんど寝たきりじゃない。寝たきりのお爺さんを見ていても何もおもしろくないわよ。
 そうね、でもいろいろ思い出すわよ、なつかしい。男の願いをかなえるために、私は下界に降りて、隣の娘の旦那を誘惑したのよ。丸顔に陰険そうな目つきの嫌な男だったけど、我慢して誘惑したわ。案の定どすけべだったからすぐ私のとりこになったわ。それでわざと娘に浮気がばれるようにしたの。まだ結婚から半年もたってなかったのよ。娘はえらい剣幕で怒り出して、包丁をふりまわして私と旦那を襲ってきたわ。あわや大惨事一歩手前ってかんじになったのね。びっくりしたわ。小柄でおとなしそうな娘だったのに。当時は離婚は家の恥だとか思われていた時代だけど、さすがにこれはどうにもならないと旦那の両親も了解して、簡単に離婚が成立して娘を実家に帰したの、晴れて私のところにお参りにきた男が次の年に出戻った娘に夜這いを成功させて、、、、、でもまあ、この夫婦も2年ともたなかったんだけどね。
 ふ~ん、なんでわかれたの?
 男が寝言で「おはな~、愛してる」って私の名前を叫んだのよ。私のテクニックがあまりによかったから、単調な娘とのセックスに失望してたのね、それで私夢に出てあげたのよ。私彼のことほんとに好きだったのよ。夢でしてあげたの。そしたら私の名前を男がさけんで、娘はまた包丁を持ち出してきて、男を刺し殺そうとしたのよ。
 なんだかつまんない話ね、とアテはやはり退屈そうな顔をした。わたしはもっとどろどろした人間のエゴ丸出しの話とかの方が好きなのよ。なんだかあなたの話はこっけいよ。登場人物が単純すぎる。
 あっ、来た。いま男の世話をしにやって来た若い男がいるでしょう。若いと言っても老人じゃないって意味よ。たぶん50くらいだと思うけど。メロスって名前らしいんだけど、あのメロスがなかなか面白いのよ。
 どうおもしろいの?
 とにかく憶病でなにをやってもうまくいかないダメ人間なのよ。特に女関係がからっきしなの。見てて面白いわよ。
 そんなのみてあなた、おもしろがってるの?あなたも趣味が悪いわねえ。
 そうかしら?前にここに住んでた仏陀って方はずっと地獄の針の山や血の池地獄で苦しむ罪人を眺めていたらしいじゃない。それに比べたらいい趣味だとおもうけど。もう一人、面白いダメ人間がここにはいるわよ。メロスの友達のセリヌンティウスっていうらしいんだけど。こっちは怠け者でどすけべで、自己中心的で嫉妬深い男ね。自分がうまくいかないのは自分のせいじゃない、全部世の中がわるいんだと拗ねていろいろこじらせてるタイプよ。差別主義者で、誇大妄想にかかっているわ。
 もう一人立ち働いてる男がいるけどあれがセリヌンティウス?どっちも面食いのあなたが好きそうな容姿じゃないわね。
 そう?セリヌンティウスは中年太りのブ男だけど、メロスはなかなか男前よ。目は大きいし、鼻筋も通っている。江戸時代の田舎町にはなかなかああいうのはいなかったわ。ちょっと遊んでもいいかなって思うくらいよ。
 そうかしらねえ。大したことないと思うけど。わたしならまだ、セリヌンティウスの方がましだと思うわね。特に自己中心的で嫉妬深いなんてからかいがいがありそうだわ。それこそ刃傷沙汰を起こしそう。
 翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お花大権現はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、ショッキングピンクの蓮の間から、遥か下にある現の世界へまっすぐにそれを御下しなさいました。
 なにするつもり?
 退屈なんでしょ?見ていなさい。ちょっとちょっかいだしてくるから。きっと面白いことになるわよ。なにしろあのメロスという男、からっきしの意気地なしで、いままで女性に自分から声をかけることができなくて、一度も女の人とつきあったことがないらしいのよ。この性の神様お花大権現さんがちょっかい出しておもしろいドタバタ喜劇を見せてあげるわよ。
 どうするつもりよ?
 誘惑してくる。そうね、さんざん好意をよせてるふりをして、それからじらしてじらして、それでもたぶんあのメロスは臆病で何もできないのよ。でも下の方は性欲でパンパンに張り詰める。それから最後に徹底的にふってやって蔑んでやって人格否定して絶望の底に落としてやったら、性欲が行き場を失ってコントロールできなくなってなんかやらかすんじゃないかしら。性犯罪者になるかもしれないし、セリヌンティウスもうまくけしかけたら、前代未聞の喜劇でもやらかすかもしれないわよ。
 お花大権現はするすると蜘蛛の糸をつたって下界へ降りて行かれました。
 
 お花大権現が下界に降りると、関西の人口密集地のこの地域には珍しく雪が降っていました。公園の土の上にうっすらつもりすらしています。時刻は夜の8時ころです。
 めずらしい、それにしても随分寒いわね。私の生まれた四国の山の中の冬に比べたらどうということはないけれども。でもさすがにこんな薄物だけじゃ風邪をひいてしまう。どうしようかしら?お花大権現は紫色の絹の薄物しかまとっていませんでした。
 お花大権現はあたりを見回しました。公園には遊具があって池があって大きな鯉が水の中でじっとしていました。周りは閑静な住宅街です。どこからかピアノの音が聞こえてきます。音のする方に行ってみると、屋根の上に風見鶏をのせた洋風の家がありました。こっそりしのびこんで裏庭に回ると勝手口があいていました。ガラス戸の向こうに1人の娘がピアノを弾いているのが見えました。年のころは14,5でしょうか。ちょうどいい、この家の娘の服を失敬しよう。お花大権現はそっと勝手口から潜り込み、2階へ上る階段の下の物置の部屋に潜り込んで、住民が寝静まるのを待ちました。3時間ほどもそうしていたでしょうか。物音ひとつしなくなり、外に出てみると廊下も階段も明かりは消えて暗くなっていました、皆寝静まったようです。廊下に足元を照らす明かりがいくつかついています。それを頼りに廊下がならないようにそっと歩いて行くと台所がありました。お花大権現はもしものために台所から包丁を盗み出しました。見つかったら、殺しはしないが、脅して逃げるくらいはできるようにしておかないと、そうお思いになったのです。さて娘の部屋はどこだろう?おそらく二階だろうとあたりをつけて、お花大権現は階段を昇っていきます。江戸時代生まれ故、背は小さくて華奢な体つきです。その細い体に紫色の薄物を一枚だけまとっています。衣擦れの音もなくお花大権現は階段をのぼることができました。登った廊下の二つ目の部屋がいかにも娘の部屋のようなたたずまいをしています。お花大権現はそっとノブをまわして中へ入っていきました。ことをあらだてるつもりはありません。包丁は念のためにもってきたにすぎません。娘は良く寝ています。箪笥の引き出しをそっと開けてみると中には中学の娘らしい服と下着がたくさんはいっていました。下着とブラジャーをつけてみました。思った通り自分の体にぴったりだ、とお花大権現は思いました。江戸時代生まれの小柄のお花大権現はちょうど中学生くらいの体格だったのです。ズボンをつけ、服を付ける。脱いだ紫の薄物を拡げて風呂敷にして、服や下着をそこに包みこむ。物音がして振り返ってみると娘が起きていました。状況がよく呑み込めていないらしく、「おかあさん?」とつぶやいています。お花大権現は娘の様子をうかがいました。目が覚めてきて、娘の顔に恐れが走りました。いまにも叫びそうなその口をお花大権現はすばやくふさいで、娘に包丁をみせて黙っているようにおどしてみました。口をふさがれた状態で娘はこくこく頷きました。大丈夫、この娘は幼い。年齢よりさらに幼いのだろう。声をたてることはない。お花大権現はそっと部屋を出ようとしました。お金に困っているの?と娘の声がしました。お花大権現はおどろきました。幼いなりに肝はすわっているようです。そうよ、お金が無くなって困っているの、だからこんなことをしてしまった。ゆるしてほしいと小さな声でお花大権現はつぶやきました。娘の同情心をあおるようにうつむいて悲し気なやつれたような顔をこころがけて。貯金を上げる、と娘は言いました。困っているのでしょ?困ったひとは助けなければならないとお母さんが言っていたわ。少しだけど持って行ってください。お花大権現は娘から2000円を受け取りました。娘が立ってきてそっとドアを開けてくれました。お名前は?と娘が聞いてきました。娘の顔にもう恐れはありません。自分が人助けをしていることに大きな満足を感じているようです。お花大権現はちょっと考えました。まだ現世での名前の事を何も考えていなかったのです。花子だと言おうとしましたがあまりにも短絡的だしおもしろみがないのでやめました。名前はまだない、とお花大権現がつぶやくと娘がクスッと笑いました。何事もなくお花大権現は夜の戸外にでることができました。こっそり娘が送ってくれました。お前の名前はなんていうんだい?お花大権現が小さな声でたずねました。もっと小さな声で娘がいいました。「はなっていうの」。雪の匂いがお花大権現の鼻をくすぐって、お花大権現は笑いそうになりました。
 雪道を歩きながら名前はなにがいいだろうとお花大権現は考えました。今押し入った家の表札には津田と書かれていました。あの家の娘をお花大権現は気に入りました。あの娘と同じ名前にしよう。津田という名前にしようと思いました。津田花、悪くない名前だと思いました。これから先、お花大権現は津田花と名乗ることになります。
 なお、この物語はフィクションであり、実在のお花大権現とも女神アテともメロスともセリヌンティウスとも全く関係がありません。夜這いの風習の説明も正確かどうかわかりませんので個々人でご確認ください。実際夜這いの風習がいつごろまで地域によって残っていたのかも私は知りませんのでご容赦ください。

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