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入院3日目(聴神経腫瘍開頭手術・翌日)

(この話の続きです)

ICUの天使

これ、は本当に、自、分の、体、なのだろ、うか。

手術後はもう自分が自分ではないような苦しみだった。とにかく頭の痛みと、首の痛み、全身のだるさで何も考えられない状況だ。ぼうっとした意識のなかに、体の奥底の悲鳴が詰め込まれ、動かそうにも動かない手足や頭を投げ出して、ただ浅い息とともにうめにていた。

こうなってしまっては、人間もただの獣に過ぎない。何も考えず体を横たえるのみだった。

夜のICUは、薄く明かりが漏れるのみで、機械音だけが小さく聞こえていた。とにかく、一般の入院病棟よりずっと静かだった。その日に誰もいなかったわけではなく、私のように話もできない患者ばかりだったのかもしれない。ただ、看護師の気配は常に近くにあった。話しかけるわけでもないが、夜中でも近くに人がいてくれるのはとても心強かった。

顔を上げられるわけではないのでよくわからないが、人が頻繁に巡回しているように感じる。定期的にベッドも覗いてくれて、私が眠れずにいるのに気づいた看護師は、「痛いー?」と声をかけてくれた。もちろん痛い。目くばせでうんうんとうなずくと、点滴で痛み止めを入れてくれた。少し痛みが和らぎ、意識も朦朧となって眠ることができた。

ただ、目はすぐに覚めてしまう。そのたびに、手術室であったような、上を見ているのに下を向いているような感覚に陥り、ひやりとする。ああ、これはきっと、耳の神経を触ったことからひどい目眩を起こしているのだろうと思った。不思議な感覚だった。

ICUの看護師たちは、普段外来で接する看護師とも、病棟にいる看護師ともまったく雰囲気が違った。活気があるというか、患者への励まし度合いが尋常ではなかった。ICUにいた夜は、ぼんやりした頭で、自分の身の上を案じてくよくよし、涙がダダ流れだった私だったが、ベッドに顔を出すたびに、看護師たちは「よくなるからね」「いまはつらいね」と声をかけてくれた。

鏡もないので自分がどんな姿になっているのかを見ることもできない状態だったが、体のだるさや頭の痛さとまったく別に、唇が痛くて仕方なかった。どうやら唇がひどくめくれてしまっているようだった。気道への挿管の際に、唇に傷がついたのだろうと看護師は気遣い、ワセリンをだくだくに塗ってくれた。

数日後にスマホで自分の顔を久しぶりに見たときは、自分史上最大のひどい顔にぎょっとするほどであったが、そんな自分を唯一気遣ってくれたのは彼女たちだった。ICUには天使がいた、と未だに思っている。感謝してもしきれない。

「聞こえる?」

翌朝も意識はもうろうとしていたが、何もしないままただただ時間は過ぎた。ベッドの上で下の世話をしていただいたのはなんとも恥ずかしかった。ただただ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

ICUでびっくりしたのは、ベッドの上でレントゲンを撮ったことだった。救急の患者さんも多いだろうし、なるほどこんなことができるのかー、と少しわくわくした。

午前11時ごろには、もといた脳外科の病棟に移動することになった。ICUの看護師たちが「病棟に戻れるからね!」と明るく声をかけて送り出してくれた。ICUという過酷な現場にいて、こんなに明るく励ましてくれる、ものすごい精神力だな、すごい人たちだなと心から尊敬した。当の私はぐったりしているうえに、挿管のせいで声もまともに出ずに、お礼もまともにできなかった。長くて苦しい夜だったけれど、やさしさに救われた。ICUの天使たち、本当に本当にありがとうございました。

そして病棟にもどる。ベッドでの移動は、昨日は揺れの痛みしか感じなかったが、今日は小さな段差が頭に響く。地面のガタガタってこんなに不快なんだな。

病棟に戻り、初日に元気に挨拶した看護師の方々と再会したが、別人のように動けず、まともに話せない自分がなんとも情けない。ベッドに寝ているだけでも不快な気分で満ちてしまい、体の痛みとだるさを伝えるばかりだった。

日の出ているうちに、医師の巡回があった。巡回は、主治医ではなく少し若い先生が担当してくれていた。

ICUにいた時から、左耳の音が聞こえているのか聞こえていないのかはよくわからなかった。側頭部を中心に頭を包帯でぐるぐる巻きにされていたので、聞こえている音を右から拾っているのか左から拾っているかが不明だったのだ。

担当の医師は「これは聞こえる?」と左耳の近くでさまざまな音を出した。指を鳴らしたり、こすったり。音は聞こえたり聞こえなかったりした。

音が聞こえている!

手術の後に主治医が言った「神経は残したよ」の意味は、聴力が残っている可能性を示唆していた。

耳を確認したあとは、顔の確認だった。目や口を動かしてみる、動作確認といったところだ。どうやら顔面神経には問題がなさそうだったが、口に何か詰めていたことが原因なのか、どうも口の中がしびれているような気がする。だが、話は少しずつできるようになっていた。

その夜、主治医も一度病室に顔を出してくれた。
「神経残したよって言っていましたよね」とかろうじて言うと、「そうそう、だから時間かかっちゃったんだよね」と明るく返してくれた。
聴神経をあきらめて切ってしまってから手術したほうが簡単であるらしいが、私の聴力を温存しようと試みたそうだ。感動した。医者ってすごいなあ、とつくづく思った。

体はまだまだだるくて何にもしたくない状態で苦しかったが、聴こえているんだと思うと希望が湧いた。

日中も痛みと疲れでうとうとしているので、夜もまともに寝られない。とはいえ、少し動くだけでも多大な気力を要するため、ただじっと横になっているだけ。スマホは手術前に鞄にしまったままだったが、看護師に取り出してもらう気も起きなかった。こんなにスマホを見なかったのは久しぶりのことだった。

気力が落ち、体を起こすこともできない中で、それでも左耳から聞こえる音を夜じゅう探した。包帯ぐるぐる巻きのくぐもった音のなかに、「聞こえているはずの音」を。


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