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中卒の親の良さと弊害について

「水曜日のダウンタウン」で「トンビがタカを生む」という企画で東大生のインタビューが話題になっていた。

私は東大卒でもないんだけど、この企画はなんかグッとくるものがあった。
酔いに任せて、自分語りをしてみる。

中卒と工業高校卒の親を持ってみて

私の父は工業高校卒、母は中卒である。
両親は「金の卵」と呼ばれた世代で、私のような氷河期からすれば羨ましいほど、日本には輝かしい未来しか感じられないほどの成長期であり、田舎から都会へと集団で就職するような時期だった。

母は四国の出身で、10人兄弟の末っ子。一番上の兄とは20歳も離れており、兄弟は大変な生活だったようだが、末っ子気質でわりとふわっとした育ち方だったようだ。
「京都で舞妓さんになりたい」と、中学を卒業してすぐ、先に家を出ていた姉を頼りに大阪にやってきたが、すぐに舞妓は諦めて就職する。

父は大阪の南部で生まれ、4人兄弟の次男として育った。弟妹の生活を支えるため、学歴は早いうちからあきらめ、当時はベンチャー企業であったとあるスーパーに就職した。

2人はそのスーパーで出会い、結婚し、私が生まれる。

母はまったく教育に興味がなく、幼稚園もなぜか年長児に入園し、めちゃくちゃ浮いていたのを、当時の私もよく覚えている。
両親がまったく教養というものに興味がなかったため、絵本が家にあった記憶がない。代わりにあったのは、アンデルセン童話とグリム童話のみ。あまりに繰り返して読んだので、いまだに表紙の絵を覚えている。

私の楽しみは、ただひたすら字を読むことだった。ただ、家で読むものがなく、小さい頃から新聞を読んでいた。年長児から入った幼稚園で、「鶏」を読めた。
なんでも読んでしまうので、そこの幼稚園の先生に敬遠されていたのも忘れられない。
理不尽だが、今考えると、自分が一生懸命教えていた子供たちより、後から入った子供の方が成績が良いのは、たぶん嫌だったのだろう。

私の両親の優れていた点は、私の成績については本当に、まったく興味がなかったことだ。
自分の子供が優秀か否か、そもそもよくわかっていなかった。
私はとにかく勉強が好きだった。学ぶことそのものが大好きで、実家はお金もなかったが、何か調べたいことがあれば先生に聞いたり、図書館で調べたりして欲求を満たした。

小学校4年生の頃には、個人面談の場で、父は担任の先生から「この子にはもう勉強させないでください」と言われたという。無理やり勉強させているように思えるほど、ひたすら勉強の好きな子だった。
でも、自宅ではテレビしか見ていなかった。母もパートに出ていたし、家には「小学○年生」の雑誌しかなかったから、ひたすら何度もそれを読んでいた。やることがないときは、本を読んでいた。夜は20時には寝ていたし、本当に他に何かをした覚えがない。

中学3年生になって初めて、受験をしなくてはならないから自分のレベルを知らないといけないということもあり、友達が通っていた塾のテストを受けに行った。すると、そこの塾に通う子をはるかに超えて、トップの成績を取ってしまった。それを見て親は、塾に通わせる必要性も感じなかったため、私が希望する学校に行かせればいいや、ということになる。

と、ここまで読んでいただいてお気付きのように、私はまったく親の干渉を受けなかった。
高校進学も、大学進学も、自分の希望する通りになった。
ただ、高校は公立だったが、大学で私立に通うためにはめちゃくちゃお金がかかる。そこについては、両親に「大学や高校に通う」という知識がなかったため、自力でお金を稼ぐために、放課後はほとんどの時間をバイトに費やすことになる。
ただ、よかったのか悪かったのか、両親は「借金」についてはずいぶん抵抗があったため、奨学金は利用しなかった。ここも、説明は難しいが、たぶんそこそこ裕福な家とは発想が違うように、今は感じる。

また、大学の希望進学先を考えるときは、正直ずいぶんと困ってしまった。
親が大学名やバリューを知らなかったからだ。
父も母も、冗談抜きで、「東大」「阪大」くらいしか知らなかったのである。

私が行きたかったのは、当時の早稲田大第一文学部だった。
私は中学生の頃から短歌を詠んでいて、憧れの俵万智さんの母校である早稲田に行きたかった。
成績としては問題がなかった。しかし、難題だったのが、「なぜ大学に行くために下宿などさせないといけないのか」という両親の説得だった。また、数学が非常に苦手だったため、国立は浪人しないと無理だと話したが、かなわなかった。浪人して予備校にいってまで大学に行く意義がよくわからなかったらしく、それも許されなかったのだ。

これは、両親の説得が結局クリアできなかったため、私は高3の2学期に、関関同立で唯一卒業生のマスコミ就職実績のある立命館大法学部を志望するに至った。

私が無事にメディアに就職したから良いものの、当時を振り返ったとき、父は「あの後、社内の大卒の同僚からは、『なぜ早稲田に行かせてあげなかったのか』と言われ、そのとき初めて後悔した」と私に話した。単純に、早稲田のバリューを知らなかったのだ。

就職するときも、「なぜ女の子が東京に出るのか?大阪にも会社はたくさんあるじゃない?」と言われたが、メディアの仕事に就くなら東京に出るのが一番良いと考えていた私は、そこに関しては反対を押し切って上京した。

トンビがタカというか、トンビはトンビなので、やっぱりタカの育て方とは違う部分は出てくるし、タカの群れの中にいると、「私はトンビだなあ」と思うことも多い。そこはまあ、仕方ない。

絵本も知らないのもそうだけれど、機会は与えられないため、小さいうちから自分でなんとかする必要があった。たまたま勉強と呼ばれる類のものは得意な分野であっただけで、得意でなかった、あるいは何かができないとしてもできるようにするための強制はされなかったと思う。

しかし、特にこだわりがなかったからこそ、のびのびと育ててもらえた。好きなこと、書くことについて、何も強制されず、思うままに書いて、どんなものを読んでも何も関知されなかった。これは今の私に至るまでの、大切な工程だった。

トンビがトンビを生んでなにが悪い

何が言いたかったかというと、親の学歴は関係あるし、同時に関係ないってこと。

「あー、こりゃ育ちの差だな」と思うことはままあるけれど、親を恨む気持ちは全くない。うちの両親は、子供が頑張っていることにはなにもかもアグリーだったし、何より夫婦仲も親子仲も良かったので、私の子供時代はずっと幸せだったため、現実主義ではあるものの、ひたすら将来に希望を感じることができる人間になれた。

私の両親は、学歴はなかったけれど、子供のことを考えていたことは今でも心からありがたく思っている。こうしてくれたら良かった、というのは、そりゃある。それでも、今の私は幸せだ。(後日談として、東京に来てから俵万智さんの実物にお目にかかって、本当に天にも昇る気持ちだった!!)

エリートがエリートを作る仕組みはなかなか強固なのだけれど、それでもまだ日本の社会は逆転可能な土壌がある。学歴だけでひっくり返せるのなら、まだ海外よりヌルいとも言える。

だからこそ、教育の不平等には、強い憤りを感じる。これに関しては、自ら声を上げ続けたい。
そして、「どうか諦めないでほしい」と、悩んでいる若者には伝えたいていきたいと思う。

#子育て #ニュースで語る

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