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集団自殺がなぜうまくいかないか

病み垢にいると集団自殺のお誘いがくる。本格的に界隈に身を置いてから3,4件はあっただろうか。そのたびに「すみません、間に合ってます」と宗教の勧誘に遭ったが如く、お断りする。
集団自殺は個人的に反対だ。犯罪リスクが高すぎる。性暴力、財布をすられる、なにより自殺ほう助に問われる可能性もある。
それでも集団自殺を考える人たちはそれを最善の方法と考えている。自分一人で死ぬよりも、誰かと死ぬほうが確実と思っているからだ。私がXの投稿やスペースで見聞きした意見としては
「一人で死ぬのは怖い、難しい」
「練炭したいけど、車を持ってないから、誰かに用意してほしい」
大まかに言えばこの二点だと思う。この二点、目的が一致していると思う人は多いだろう。違う。断言する。
一つ前の記事で、希死念慮に受動的と能動的の二種類があると書いたが、前者は受動的で、後者は能動的だ。一人で死ぬのが怖い人と自殺する覚悟はあるがより完遂率を上げるために集団を選ぶ人が集まれば失敗する。
自殺への気持ちが整っていなかったら失敗する。
例えるなら、戦時下の自決か、ヘヴンズ・ゲート(カルト宗教。教祖と信者たちが集団自殺したことで有名。センシティブなので検索注意)くらいの信念(覚悟)の一致がないと厳しいと思う。
知っている人も多いと思うが、おそらく練炭での集団自殺が広まった原因である2004年の埼玉集団自殺。うまくいった事例なのかというと、事件の中心人物は何回か失敗してる。失敗の際、警察のお世話にもなってる。
“たまたま”集団で死ねた事例の一つだ。
死ぬことに失敗と犯罪リスクをわざわざ負わなくていい。
個人的には集団自殺はオワコンでいいと考えてる。

ここで記事を書き終わると、ただの反対意見になるので、集団が失敗する原因として希死念慮の両価性について触れておく。以下、引用。

自殺行動におよぶ際、ほとんどの人が「死にたい」気持ちだけではなく、一方で「生きたい」気持ちをもっています。(両価性)
また、死にたい気持ちがそのままずっと続くことはありません。(一過性)
この状態はしばしば振り子に例えられます。振り子が振れるように、死にたい気持ちと生きたい気持ちの揺れが起こり、揺れが大きくなれば大きくなるほど自殺念慮の段階(考えている状態)にとどまれなくなり、ついには自殺企図(自殺行動)に至ります。

北九州市 いのちと心の情報サイト


自殺したい皆さんが一番困ってるのが、上の図にある心の動きだと思う。
よく「一歩踏み出す勇気がなかった」と自分を責めてらっしゃる方を見かけるが、勇気があるかないかの話ではない。頭が単純に冷静だからだ。誤解を恐れずに言うと、頭がおかしくなった人間しか自殺できない(私は決行するなら頭をおかしくするために時間をかけるつもりだ)
集団は準備に時間がかかるし、他人が介入するため“考える時間”が必然的に増えてしまう。となると、死ぬための意欲が下がる。仮に道具も人間も揃ったとして、自分はやる気満々でも、同伴した人間が何かの拍子に冷静になるのは十分あり得る。
実際、そういう失敗談が山ほど出てくる。「本気の人のみ」って掲げても、なかなか難しいだろう。集団は失敗前提で臨むくらいではないと心が折れる。失敗が嫌なのに失敗前提の自殺の計画とはなんぞや。

もうやめよう、集団なんて。ここまで読んでも「集団がいい」ってこだわる人がいれば、それは「死」でなく「人」を望んでるだけだ。人恋しいのだ。死ぬタイミングではない。お茶を飲んで一服しよう。

最後に着地に失敗するアホウドリをご覧ください。

アホウドリは大きな翼を持っていますが、それゆえ細かい制御ができずに着地に失敗することがあります。

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