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本当

本当に好きだった人のことを思い出すとき、いつでも私は一人だ。一人きりだ。一人きりでtofubeatsを聴いている。大音量でNEWTOWNを聴いている。この曲を聴くと、本当に好きだった人のことをどれだけ好きだったか思い出す。どんな風に出会って、どんなところを好きになって、どんなところを嫌いになったのか思い出す。嫌だった出来事は鮮明に思い出せるのに、幸せだったときのことはあまり思い出せない。頭の中の記憶装置とは、そんなものなのだろうか。そんなものでいいのだけどさ。

本当に好きだった人の消息を知るのは容易いことではない。でも知らないほうがいいのだと思う。別れ際、あんなに憎んだ人間だってどうせ世界のどこかでのうのうと生きている。そんなものなのだ、そう言い聞かせて今日もやり過ごす。
私が好きだった歴代のあの人たちは、私にまつわる記憶をどこかへ捨てて、きっと今日も生きている。それがどうしても許せなくて、やるせなくて、情けなくなる。どうしても、どうしても、過去の記憶に悩まされている自分が醜くて、今を生きられない自分が不憫で、過去を美化してしまう自分が可哀想に思えてくる。

私は今を歌詞にできない。短歌にもできない。幸せなことを作品で肯定できない。これまで表現をするにあたって、悲しい出来事や辛いことを作品にしてきた。負のエネルギーを消化してきた。それが癖になっているみたいだ。楽しいことや嬉しいことにフォーカスすると、とたんに何も描けなくなる。その事実がすごく悲しくて、どうしようもない。

この間、東北で大きな地震があったとき、遠くの人のことを思い出した。勝手に無事であってくれと思った。どうせ死んでも死なないような最悪な人だったけど、それでも無事を願ってしまうくらいには好きだった。それが真実だから悔しくて仕方ない。どうせもう会えないけど、会いたくもない。裏切ったのは私だ。
人との別れは簡単で、LINEの連絡先を消せば終わりだ。TwitterやInstagramもブロックかフォローを外してしまえば見えなくて済む。あっさりとした時代だ。良いのか悪いのかはよくわからない。

何もかも忘れたいとき、密度の高いダブステップは最高だな。音圧で全てを変えていける。まあそんな簡単に変わりはしないけれどさ。
あの夏を性懲りもなく思い出す。どうせ帰れないあの日を思う。靴擦れでひどい血豆になった爪先を見る。私は何も変われない。変わらない。変わらないで行こう。私は私にしかなれない。
他人にはなれないから、他人の気持ちはわからない。その人ではないから、その人の痛みもわからない。感情でも、物理的な物でも。
自分の気持ちでさえ不安定で不確実で曖昧なのに、そんな簡単に他人のことがわかるのかい?そんな風に問いかけてくる自分がいて閉口する。自分の人生の中で他人の気持ちになって考えたことが何回くらいある?

考えるのが嫌になって、布団に入った。布団は冷たかった。他人の冷たさもこんな感じだな、となんとなく思った。自分の周りにいてくれる人のことを大切にしようと思った。どんな状況でも無条件で支えてくれる親のこと、アイデアを話してくれる兄弟のこと、いつも優しく穏やかに接してくれる友人のこと。自分がどんな形になっても、人の形ではなくなってしまっても、守らなければならないと思った。

私は何がしたいんやろうね。大切な人はたくさんいるけれど、ちゃんと恩返しできているかわからない。空を掴むような、このなんともいえない感覚が私を苦しめている気がする。そこまではわかるのだけど、そこまでしかわからない。
今まで人のために生きてきたわけじゃないけれど、今は誰かのために生きてみたい。素直にそう思う。

好きな人のぬくもりに触れたい。触っただけでは伝導しない気持ちも言葉にしてしまうと少しチンケだから、大切に大切に触れて、言葉じゃない方法で好きだと伝えたい。まあそんなことしばらくは無理だけど。
あのとき大切にしていた曲も今では心のガラクタになってしまった。私は、どうしたい?




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