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「実はそうじゃないかもよ?」と言われたときに僕が考えていること

いつも思う。
「主観的な体験」と「客観的な事実」が食い違うとき、主観的な体験のほうを単なるマチガイとみなしていいのだろうか……?
錯視の絵で説明する。錯視の絵は実際には動いていないのに動いて見える。実際は同じ長さなのに違う長さに見える。でも僕の脳は確実に絵が動いてると感じているし、長さが違うと認識している。その事実は間違いではないはずだ。いや、間違いでもいいけれど、存在しないことにするのはおかしいと思う。「その絵、動いてないよね」で終わらせてしまったら、錯視アートは発見されずじまいだ。

みんなによく言われるのだ。
「君はそう思ってる(主観)かもしれないが、実はそうじゃない(客観)かもよ?」

僕はやる気がない。
でも脳を調べた結果、やる気があると判明するかもしれない。そうだとしたら? という仮定。

やる気指数みたいなものが作られるとしよう。
当然、僕の前には僕よりやる気のある人が並び、僕の後ろには僕よりやる気のない人もいて、
正常/異常を分ける基準線をどこに引くかで議論になるだろう。正規分布に従ってグラフは平均値を中心とした左右対称な山型の分布(ベルカーブ)を描く。例えば知的障害者はIQの下位2%くらいだから、やる気障害者もそれくらいになるように定義されるかもしれない。

障害を定義するとき、「医療モデル」と「社会モデル」という二つの考え方がある。
医療モデルは、障害を個人の心身の機能に着目して定義する。わかりやすい身体障害を例にとるなら、腕がちぎれたり生まれつき無かったりすると障害者とみなされる。だから極論、「国民全員が身体障害者」という事態だって存在しうる。
社会モデルだとそういうことは起きない。腕がない人が多数派なのであれば社会もその状態に合わせて作られているはずで、それが通常、それで健常となる。生活する上で不便もなく、あったとすれば、我々が「腕が三本あれば便利なのになぁ…」と感じるような追加の願望になる。逆に腕がニ本ある人間こそ、腕一本用につくられた社会で不便を強いられるだろう。腕ニ本であることが障害になる。社会モデルは社会のあり方によって障害を定義するのだ。

やる気障害は社会モデルを採用するだろう。やる気障害の問題のポイントが社会の中で少数派になることにあるからだ。もし、やる気がない人が多数派だったなら社会もやる気がない人々に合わせて作られていて、僕たちが今のように苦しむ必要もなかっただろう。

さて

大前提として、理論というのは現実をうまく説明するためにある。理論と現実が食い違った場合、たいていは理論の方を修正するのがセオリーだ。仮に現実を修正してしまったら、それは神学になってしまう。科学ではなくなる。

だから「やる気のない人」は僕を基準に判定されることになる。僕はやる気なし人間! きまり! 以上! 終了!

……と僕は思っていたのだが、これじゃみんなは納得してくれないようだ。やる気の有無は主観なのだから、それが他者との比較で綺麗に並ぶということがどうしたってイメージできないらしい。

「主観的にはやる気がないと思い込んでいるけれど、客観的にはやる気が充分にある人間」が存在するはずだ、とみんなは言う。

確かにそうだ。社会モデルを採用したので、僕個人だけみてやる気障害者になりきることはできない。

うーむ……。「やる気」の定義の問題なんじゃないかなあ? 僕は正直、やる気の有無に拘ってるわけでもなくて、自分と他者で違いが生まれる原因をつきとめられたら満足なのだ。現実に僕とみんなとでは違いがあるのだから、違いの生まれる背景がわかればそれでいい。この際、僕が「やる気に満ち溢れた男」とみなされてもいい。なぜ「やる気に満ち溢れた男」がこんなにも何をするにも体が重く、目に映る世界が色褪せているのか、それを知れればなんでもいい。

先輩は言う。
「君のやる気は主観的なものだから、みんなと比べることはできない」
「君も実は、みんなと同じくらいのやる気を持っているのかもしれないよ」

そうかもしれない。そうかもしれないが、「そうかもしれない」レベルの話をまるで確定した事実のように語ることはできない。先輩は主観は比べられないと言いつつ、僕とみんなの主観的なやる気を比べようとしている気がする……いや、客観的なやる気を比べているのか? でもそれってまさに今の僕の行動を見ればわかるのでは……

ではなぜ他のみんなには耐えられて、僕は耐えられないのか。ストレス値は同じでもストレス反応は僕のが明らかに大きいのだ。

「客観的なやる気」なんてものは存在するのか? 現時点では存在しない。「客観的なやる気」を知る方法が存在しないから僕はいま苦しんでいるのだ。はやく脳波とか測って調べられるようにしてほしい。現時点で「君はやる気があるのか?」と問われれば、「あるかもしれないし、ないかもしれない」としか言いようがない。少なくとも主観的にはない。

存在しないことの証明は難しい。悪魔の証明と呼ばれる。「ある」と「ない」で対立したとき、「ある」と主張している方に立証責任がある。あるかないかわからないものは、とりあえず「ない」としておくのがベターである。
しかしこの場合「ある」と主張してるのはどちらだろうか。見方によっては、どちらともとれる。
相手側が僕の中に「やる気」が存在するはずだと主張してるともとれるし、「やる気障害」なるものの存在を僕が主張してるともとれる。

そもそも「やる気」って概念も、本当に存在するものなのかよくわからない。実際には存在しないバーチャルな概念なのではないか。僕たちの脳内でやる気が増えたり減ったりしているのではなくて、D2受容体の密度とかドーパミンの分泌量とか……そんなのが関係してるのだろう?

「やる気」の僕のイメージは、「やりたさ」と「やりたくなさ」の合算だ。だから同じ「やる気0」でも2パターンある。

(やりたさ5)-(やりたくなさ5)= ±(やる気0)
になる場合と、
(やりたさ0)-(やりたくなさ0)=(やる気0)になる場合がある。

前者のパターンでは「やりたくなさ」を下げていけば、いずれ「やりたさ」が優って、やる気がでてくる。
しかし、後者のパターンで同じアプローチをとっても、そもそも「やりたさ」が0なので、いつまでたってもやる気はでてこない。(やりたくなさがマイナスに振り切ればやる気がプラスになるぞ! 変に賢ぶって計算式にしたのが仇になったぜ。すげぇな数学)

紛らわしいので僕の中の定義を説明しよう。僕たちは「やりたさ」「やりたくなさ」と聞くと、同一直線上のプラス方向とマイナス方向のように感じる。しかし、僕の中ではそうではなく、互いに無関係な全く別の項目として存在している。

「やりたさ」は報酬期待のこと。「やりたくなさ」はコスト感受性(億劫感)とする。「やりたさ」は報酬の大小で変動する。「やりたくなさ」は報酬の大小に関係がない。

だから、自分がどちらの状態かわからないときは、とりあえず「やりたさ」を上げていくのが最善手となる……という説。でも、もしやりたさに上限があるとしたら、どこかで頭打ちになっちゃうね。

(おわり)

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