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10番へのこだわり

本記事はnoteのお題である「 #背番号のストーリー 」に応募しているものです。

10歳でラグビーに出会った少年。


団体スポーツである最大の人数であるラグビー15人制。
身長が大きい選手、体が大きい選手、足が速い選手、頭がキレる選手。
どんな人にも輝けるポジションがあるのがこのラグビーの最大の特徴。

そんなスポーツに出会い、初めてのポジションはウィング(WTB)でした。

ウィング(WTB)とは
背番号11と14をつけている選手で、ポジショングループのひとつであるスリークオーターバックを、センター(CTB)とともに形成します。正式名称は「ウィング・スリークオーターバック(Wing Three-quarter Back)」です。「ウィング(翼)」の名前通りピッチの両端に位置する、スピート抜群のトライゲッターです。

https://the-ans.jp/analysis/153816/


ラグビーの『ラ』の字も知らない少年が、楕円球に触れ、何か面白そうだからと始めることを決意した。

今でも忘れない初めての試合。

近所のラグビースクールに通い始めて2~3ヶ月で行われた初めての試合で、3トライもしたのだ。

正確には、させてもらったのだ。。。


トライをすれば仲間が近寄ってきて一緒に喜んでくれる。
コーチが褒めてくれる。


ボールをキャッチして、相手に捕まらないように全速力で走る。
トライラインを超えてボールを地面に置けば"トライ"となる!!


そう、これが10歳の僕にとってのラグビーだった。


今思えば、僕はラグビーとの出会い方はとても良かったのではと思う。
小学生時代、自分でいうのもなんですが、運動神経はよかった方。

基本なんでもでき、その中でも球技はほとんど得意だった。

野球のピッチャーのようにコントロールが良かったわけではないが、特にキャッチに恐怖心はなかった。

昼休みのドッチボールはお手の物だった記憶が蘇る。


今24歳になり、自分がラグビーを始めた年代の子供たちと触れ合う機会も増えてきたが、一番克服が難しいのは「恐怖心」だと気づく。

特にラグビーは相手とぶつかるスポーツが故に衝突は避けられない。

しかもその衝突は小学生時代の喧嘩とは訳が違う。


タックルにいく恐怖心。
これを本当に感じるのはおそらく中学生くらいだろうか。

それまで、特に小学生低学年世代ではボールが怖いと言う。


今の子供たちはこの傾向が強い。

球技でボールが怖ければどうしたものかと指導者も悩む。

ここは本題ではないので、また今後触れてみたいと思う。



今回は背番号のストーリーについて。


始めてのポジションはWTB。
小学生高学年は9人制だから8番とかに当たる。

中学生から12人制になる。
僕のいた地区では珍しく15人制の大会もあり、どちらも練習していた。


中学でラグビー部に入った僕の初めてのポジションはCTB(センター)だった。
15人制でいうと、12番or13番でこの時は12番だった。


理由はなんともその当時らしく、1年生試合の当日、いきなり決まった。

初心者がほとんどの部活動の中で、経験者だった(と言っても小学5,6年生の2年間)という理由から、ポジションは後回し。

未経験者から比較的複雑ではないポジションを選んでいった。

簡潔に言うと、残ったのがBKだと僕ともう1人。
ポジションはCTBとWTB。


勘が鋭い方はお分かりだと思いますが、僕はWTBをやりたいと言いました。
理由は、やりたかったから。
それと、もう一人の仲間より自分の方が足が速かったから。

それでも、ポジションの難易度的にも希望は叶わなかった。
(SO(10番)は同じスクールから入学、入部した頼れる仲間がやっていた)


特に中学生のセンター時代での記憶はほとんどない。

小学生の2年間は、ボールを持ったら全速力で走る。

これしかやってこなかったからだ。
パスもまともにやったこともなく、キックは論外だった。
(今だと考えられないですね😂)


とある日、転機が訪れる。


中学3年生が引退し、新チームが始まった時。

一番初めの大会の何試合目だったのか、練習試合だったのかはわからないが、

順当にいって1つ上の先輩のSOの選手がレギュラーになった。
僕は試合に出ることすらなかった。はず。。。


が、ある時その先輩が怪我をした。
同級生のSOをやっていた選手が繰り上がるはずだったが、練習で脳震盪をしていたのだ。


ということは、SOをできる人間が誰もチームにいなくなってしまったのだ。


よく考えると、かなりの危機と言えるだろう。


そこで抜擢されたのが、僕という人間だったわけです。


この試合が人生で初めてSO(10番)になった時。

正直対戦相手はどこで、勝ったのか、負けたのかは覚えていない。


なぜ試合に出ていなかった自分自身が、ポジション変更をして、試合に出してもらえたのかはいまだにわからない。

その当時の顧問の策略があったのだろう。


もちろん怪我をしていた先輩と同級生が復帰してくるまでの代役だろうと思っていたが、復帰してきても一向にその場が譲り渡る気配がない。

なぜか自分もそこの椅子に居座っていた。


2年生になり、その時が終わるころには正10番として、チームの司令塔をやっていた。


才能が開花したのだろうか。


そんなことは全くないと思うが、このポジション変更がきっかけでスタンドオフという今のポジションに出会った。



そこから中学3年生では大阪府中学校選抜のBチームに選んでいただくこともできた。
それは自分の中での自信に繋がるタイミングでもあった。


高校進学は今でこそ強豪校である仰星高校へ進学を決意。

1年生からBチームで経験させていただき、2年生にはリザーブに入ることができた。

が、高校2年生の花園はSH(9番)で出場している。


今思い返しても、これもかなりすごい監督の采配と言いますか😂

この時の経験があったからこそ、視野は圧倒的に増えましたし、自分自身の可能性を拡げるきっかけともなった思います。


でも、やはり自分が一番輝けるポジションではないなと心のどこかでは思っていました。


高校2年生の花園はベスト8に終わってしまいます。

最終学年になって待っていたポジションは元に戻ってSOでした。


この1年間はぶれることなく、10番を背負い続けました。

高校3年生の1年間は実績だけで考えると、ものすごいものになります。

興味のある方は👆の記事を読んでみてください!



ということで、高校3年生で自分は10番が向いている。

自信があるのはこのポジションだと思う様になりました。



大学生では1年生から1試合を除く公式戦(対抗戦と大学選手権)全てに、SOとして出場させていただきました。
勝ち負けで考えると、大学時代の勝率は50%?ほどに体感では感じます。

大学4年時に優勝し、終わり良ければ全て良し。という形にはなりましたが、その道のりはとても長いものでした。


もちろん負ける試合も多くありました。
大敗する日もありました。

そんな中でも、自分自身が10番のポジションにいるからには、チームに勝利をもたらすのが使命であり、自分の責任です。

プレー1つ1つに意味があり、その判断1つが命取りになることすらあります。


どのチームでも基本的にはSOがサイン選択の全権を任されているように、その判断が違えば、歯車はかみ合いません。

遂行力がチーム内にどれだけあっても、初めの判断が違っていれば、結果はついてきません。

『司令塔』と聞くと、とても聞こえが良いものですが、実態はそんなことはありません。

重圧と常に戦わなければいけないです。


特に試合中は、1秒考える時間があるかどうか。

この10分の1ほどの時間で、あれだけ体を酷使している中で、頭をフル回転させ、グラウンドの中で誰よりも冷静で、正しい決断をしなければいけません。


ごめん。間違えた。もう一回。やり直し。


この言葉が通用するのであれば、どれだけ楽に感じるだろうか。



何となくですが、SOの面白さと、その辛さのような部分を感じていただけましたでしょうか。。。




SOというポジションは、ラグビーの中で他の人と一番差を出しやすいポジションではないかと個人的には思っています。

人との違い、それを自分の強みとして表現することができる。
これがラグビーをやっていて、スタンドオフというポジションならではの面白さでもあると感じます。


もちろん伝説とも言えるダン・カーター選手がいたり、今ではボーデン・バレット選手など有名な選手がいますが、僕自身は彼らの2世になるのではなく、岸岡1世として自分自身のラグビースタイルをこれからも作り上げていきたいと思っています。


社会人となり、今の傾向だとSOに専門特化というよりはユーティリティプレイヤーのような存在が重宝される時代にありますが、自分の本職はSOであり10番であることをこの記事を通して思いだしました。



以上これが僕の背番号のストーリーでした。
最後までお読みいただきありがとうございました!!

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