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『お赤飯を炊かないで』を読んで

一目惚れしたことはありますか。
だいたい一目惚れってなんですか。そんなもの本当にあるんですか。米のことなら知ってるけど。
運命だとか、偶然だとか、そういうよくわからない不確定な要素を取っ払って、もし一目見た時に尋常でない好意を抱くことがあるとして、それは一体どんな根拠の元にそう判断されたのかとても気になる。
そして、一目惚れで両想いの対魔忍と一般女子の恋愛とは一体どういうものだろうか。

お赤飯。それは腹持ちがよく、モチモチ食感の紫色をした食べ物である。小豆の存在がアクセントとなっている。ごま塩をかけて食べたり、そのまま食べたりもする。好きという人は意外と多いらしく、コンビニおにぎりの中でも売れ筋だそう。個人的にはあまり好んでは食べない。豆ご飯が元々苦手なもので。でも自衛隊の戦闘糧食のお赤飯は美味しかった。陸自の広報の方が、「お赤飯とたくあんの缶詰がいちばんのおすすめです」と言っていたのを思い出す。冬の演習場はクソがつくほど寒かった。
それはさておき、今回はみんな大好き百合小説のフロンティアスピリット不璽王さんのSF百合小説最新作(いつの間にか最新ではなくなっていた)『お赤飯を炊かないで』について書きたい。
前回レビューを書いた『人をやるのが1回目』では、転生し続ける一つの魂≒命の昇華を描いた不璽王さん。
今回は何であろうかと読み始めると、しばらく語彙の堪能な苦情と罵声が続いて百合とは?となる。
一連の恨み辛みの後にやってくるもの。
それは百合×感度の予感。敏感すぎて困っちゃう。ヤダ、体温でお赤飯炊けちゃう。
ヒトは五感を使って生きている。正確に言うとそのどれかやいくつかを持たない人もいるが、多くの場合は五感に頼って生きている。
目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、皮膚で触れる。
それらの感覚の複合の強弱で、生命の安全危険をより分ける。目が見えないことの危険があるように、感覚が欠けることは、そのまま生命の危険を増幅させるのだ。
では、感度が強すぎる場合はどうだろう。よく見えるだとか、よく聞こえるというレベルでなくという意味で。
例えば、そっと触れるだけで痛みを感じるような敏感さ。痛風のことか。いや、それよりももっと強い感度で。
それは感度自体が命を脅かすことにはならないだろうか。
冒頭の対魔忍の話はここに繋がる。
誰しも何かしら他人より少し鋭い感覚を持っていたりする。音の聞き分け、味付け、平衡感覚、空間把握などなど、気付いていないだけで鋭敏な感覚はきっとある。乳首が感じやすいとかもそこに入ると思う。
そして、その鋭敏な感覚と才能や努力と噛み合った人たちのことを私のような凡人は羨むし、ボンテージピチピチお姉さんが何千倍かになった性的快感と倒錯に精神力で抗い、時に快楽に堕ちる姿にリビドーを覚えたりもする。
だけどその感覚、感度に苦しんでいる当人たちのことをどれだけ理解できるものだろう。
繊細という言葉がある。そこに含まれるポジティブな意味とネガティブな意味がある。
それらは表裏一体だ。多くの人々は、ある人の感性が繊細であることで生まれる何かしらの稀有な表現技法を「芸術」として享受する一方で、感性が繊細なゆえに社会生活や日常生活の難しい人の存在を疎ましく思う。
そも繊細であることは心の感度が高いということであり、トゲトゲとささくれ立った現代人の中にあっていいことなど何一つないのだ。
同じように、それは痛みに弱いことであったり、すぐお腹を壊すことであったり、見えなくて良いものが見えてしまうことだったり、感度の高すぎることは生活に支障をきたす現象として表出する。
他人にとっては何でもないことが感度の高い人にとっては苦痛であり、それによって生きるのが難しいこともままある。
そして、その生きるのが難しいという状態を以て『障害』と呼んだりもする。
なのでこの物語は障害者とそのなし崩し的支援者の共依存の話のようにも見えないことはない。
がしかし、共依存的な体質を抜きにして百合を語るのもまた難しい。

お赤飯の話に戻る。

(……「お赤飯を炊かなきゃね」の意味がわからない人ももしかしたらいるのだろうか。
百合小説を読むような人で知らない人はいないと信じたい。
そもそも、わからなければこの作品を理解できないのであるからして。)

先程から感度がテーマであるかのように書いてきて何なのだけれど、実際のところ『お赤飯を炊かないで』というタイトルからして作品に横たわるのは「変化」でもある。
それも劇的な。お赤飯を炊く前と後では、変え難い生物としての違いがあるという意味で。
物語は、主人公であるところの杏奈が、その特異な体質(ある五感の感度)を抱えながらも、更紗の存在を文字通り命の支えとして生きてきたというその切実な説明から始まる。
二人を取り巻く背景というか設定はさておき、杏奈はなんとか中学校一年生まで生き延びたのだ。生ききったというか。
そして、その苦しみと痛みの13年間の果てに待っていた『お赤飯』事案である。
平均的に初潮の訪れる年齢は10~15歳くらいだそうだが、つまりはそれに重要な意味があるのは自明。
そこにある戸惑いや衝撃、もしくは落胆は、“何か”をきっかけに知っている人がまったくの別人に感じられてしまったり、遠く感じた経験がある人になら通じるだろうか。
仲の良い友達だと思っていたのに、ある日知らない人と知らない表情で笑っているところを見て心のどこかがチクリと痛むような。
親友が童貞を卒業したと聞いたときのような。
家族が爬虫人類と入れ替わっていたと知ったときのような。
もう元の関係性には戻れないというその喪失感は、そのまま絶望感、時には怒りにすら変化する。
命に関わることならなおさらであり、少なくともその“初潮”という現象の到来が、杏奈にとっては命に関わるのだ。
そして、それは更紗にとっても。

ここまで読んだ賢明かつ暇人のあなたなら何となく察していると思う。
『お赤飯を炊かないで』は“運命的な一目惚れ”を描いた小説であり、百合百合いちゃいちゃラブコメディではない。
百合百合いちゃいちゃラブコメを期待した人は、残念ながらその生い立ちゆえになじれて歪んだ感性の女子中学生の呪詛を聞かされ続けることになる。しかし、それが良い。
誰かが水爆を愛するようになった理由はよくわからなくても。杏奈が更紗に一目惚れした理由は読めばわかる。

一目惚れしたことはありますか?
一目惚れって何なのでしょうね。本当に。
果たして、私たちはちゃんと人のことを見てるんでしょうか。
どうやって相手を認識して、どうやって自分の中の好意を確認しているんでしょうか。
そういうことを考えると、離婚した友達が「初めから好きじゃなかったのかもしれないな」とポツリと言ったのを思い出したりなんかする。なんて不毛で率直な感想だろうか。それに気付かないふりをすることが幸せだという言い方もできる。
脳内物質と五感に惑わされて、私たちは不確かという液体で満たされた水槽の中をふわふわと漂っては、目の前に降ってきた食べられそうな餌に反射的に食いつく賢くない生物みたいな私たちが本当の愛に気付くことはあるのでしょうか。
転生を繰り返し達観と諦観を手に入れたヒトの掌の上に残ったものと、高すぎる感度で濁った世界が晴れたときに初めて見えたものは、もしかしたら同じものなのかもしれない。
新しい恋の始まりを、新しい人生の始まりを、決してきれいではないかもしれないし苦味のある明日ばかりかもしれないけれど、肌の匂いがするくらい近づいた時に愛おしさを感じることができたら、少なくともそれは幸せと呼べるものなのではないかと思う。

お赤飯を炊かないで | 不璽王 #pixiv https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14135740

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