倍速視聴と意図主義、コミュニケーションと道徳
はじめに
前回『作者の表現欲求と視聴者のコミュニケーション欲求』で作者と視聴者の意図のすれちがいについて書きました。今回は分析美学の〈意図主義〉を参考にてもうさらに考えてみます。
倍速視聴は不道徳?
〈意図主義〉というのは、作品を解釈・批評をするときに作者の意図を尊重しようという考え方です。反対に作品だけを対象として作者の意図を考慮しない考え方もあります。こちらは〈形式主義〉と呼ばれます。『批評について: 芸術批評の哲学』が詳しくはこちらをおススメします。比較的(比較的)平易な語り口で〈意図主義〉を肯定的に紹介しています。
倍速視聴は〈意図主義〉的ではないでしょう。少なくない作者は等速視聴される前提で作品を作っていると思われます。倍速視聴に肯定的な作者の存在も想像に難くなく、ここには繊細な問題が潜んでいるようです(「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2 - obakeweb 『2.1. 「失礼な鑑賞について』参照)。
作品視聴には作者とのコミュニケーションの側面があります。コミュニケーションでは、まずはきちんと受け止めた方が道徳的でしょう。倍速視聴では、間によって表現されていた感情は失われてしまうでしょうし、逆に意図しない滑稽さが付け足されてしまうかもしれません。
等速視聴は強制し得る?
作者と視聴者のコミュニケーションにおいて倍速視聴が不道徳だとして、もともとの問題は視聴者の所属するグループ内のコミュニケーションです。どちらを優先すべきでしょうか? 優先できるでしょうか? 優先せよと命じられるでしょうか?
多くの人は自分の所属するグループ内のコミュニケーションを優先するのではないでしょうか? SNSの普及で作者が視聴者と直接やりとりするハードルは下がりましたが、作者から視聴者への作品を通したコミュニケーションはほぼ一方通行です。これに比べたら日常的に相互にやりとりするグループでのコミュニケーションの方が重要です。人によっては死活問題でさえあるかもしれません。
作者はどこまで等速視聴を強く訴えられるでしょうか? 食べ方に細かい注文をつける頑固なラーメン屋(を風刺的に描かいたイメージ)の様相を呈してはいないでしょうか? 視聴者は途中で合わないと気が付いた作品に最後まで付き合わされる必要はあるでしょうか? あるいは倍速視聴やスキップや途中で観るのを止めることに罪悪感を覚えなければならないのでしょうか?
問題は「倍速視聴」について話すことかも?
ここまで考えると倍速視聴は非常にデリケートな話題であり、問わないといけないのは「倍速視聴に言及しない方がよいのではないか?」だと思えてきました(一連の記事を自ら全否定)。
現実的な問題として、倍速視聴を禁止することはできません。すべてのプレーヤーから早送り機能を取り去ることができれば禁止できますが、そんなことは起こらないでしょう。仮に等速視聴を強制できるとしても、自由を奪うのが望ましいとも思えません。
この構造で思い出すのは『読者に「ファンです。古本ですが読んでいます」と伝えられるのが辛い』というような小説家のツイートです。古本の流通はいまさらなくなりはしないでしょうが、いくら古本が流通しても著者には利益は生まれません。読んで好きになってくれたのはうれしいが、正直にいうと新品を買ってほしいという話でした。
古本でしか買えない金銭的な事情があるのかもしれません。倍速視聴でしか見られない時間的な事情があるのかもしれません。そうであれば、いちいち触れない方がお互いのためではないでしょうか。視聴者どうしのグループ内コミュニケーションにしても、全員が倍速視聴に肯定的だとは限りませんし。
おわりに
書いているうちに当初は思いつきもしなかった方向に進んでしまいました。なんとも歯切れが悪く無難で当り障りのないところに着地しましたが、切れ味が悪く凡庸な思考の持ち主が書いているので予定調和だったのかもしれません。あるいはそれが日常的な会話なのかもしれません。
倍速視聴とコミュニケーションについてはこれで切り上げます。次回からは知識獲得を目的とした倍速視聴からファスト教養に話を広げていきたいと考えています。
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※ヘッダ画像はBing Image Creatorで生成
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