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カミングアウトされたいと思っている人へ

「ずっと言えなかったけど、実はゲイなんだよね」

ある日、突然カミングアウトされた経験がある。自分はトランスジェンダー男性という性的マイノリティ(以下、総称してLGBTQ+)の1つの属性を持ってるけど、そんな自分でも思いがけずLGBTQ+から当事者だとカミングアウトをされた経験がある。

「えっ!?そうなの!?!?」

自分がカミングアウトをして生活をしていると、物珍しい扱いを受けることが多いので、「まさか自分の周囲にLGBTQ+はいないだろう」と無意識に感じていたのか、面食らってこんな言葉しか出なかった。こうした無意識は、世の中の当たり前が「シスジェンダー(割り当てられた性別と性自認が同じ人)」「異性愛」であり、自分も例外なくその価値観を植え付けられているからだと思う。「世の中にはLGBTQ+の人もいるんです」と偉そうに人に説明をしながら、自分自身の中にある「当たり前」の変わらなさに自分でも驚いた、それくらい根強いし無意識化されているんだな、と。

「なんだぁ、そうだったんだ。ちなみにどんな人がタイプなの?付き合ってる人いる?もし嫌じゃなければ教えてよ~」

ドキドキする気持ちを抑えながら、なるべく不自然にならないように恋バナでも切り出してみる。これが相手に不快かどうかなんて人によるかもしれないけど、あなたとの関係性の中ならきっと嫌なことは嫌って言ってくれるはず、そういう淡い期待を持ちながら矢継ぎ早に会話を進めようとした。


私がカミングアウトする相手

同じLGBTQ+だからといって、必ずしもカミングアウトするとは限らない。実際に自分も、セクシュアリティが違うとカミングアウトをためらうこともある。例えば、シスジェンダーで非異性愛の人にトランスジェンダーであることをカミングアウトすると、「え?結局女ってこと?」「どうしてレズビアンじゃないの?何かダメなの?」と言われたことがあり、とても不快な想いをした経験がある。また、同じセクシュアリティであっても、違和感の程度や治療に対する考え、どこを治療する/しないか、性的指向が異なるだけで「それはおかしい」「本物のFTM(トランス男性のこと)じゃない」などと否定されることもあり、同じマイノリティなのにどうして「ちがい」を受け入れられないんだろう、その「ちがい」で排除されてきて悲しい想いをしてきたはずなのにと悲しくなることもしばしば。同じマイノリティとしての痛みを知っているはずなのに、どうして。

カミングアウトを通じて嬉しかったり悲しかったり、いろんな経験をした結果、どんなセクシュアリティであっても、そもそもみんな異なるという当たり前のことが念頭にあること、相手をリスペクトする心がないと、カミングアウトをしたいと思えないことに気づいた。


カミングアウトしてほしいと思っている人へ

カミングアウトは、残念ながら今の社会状況を踏まえても、まだまだ足がすくんだり心臓が口からはみ出すくらい緊張したり、自分のデリケートな部分をさらけ出す、くらいの気持ちでする人もいると思う。少なくとも私はそうだ。私は現在、男性として生活をしているけど、同期にも言いたくないし、就活でも本当は言いたくないし、まだまだ言うのが怖いしできれば言いたくない。

よく「LGBTQ+の人を助けたい!だからカミングアウトしてほしい!」という人がいるけど、残念ながらカミングアウトする場合にも、いろんな状況がある(以下は私のケース)。

①大事なあなただから、本当の自分をもっと知ってほしい
「あなただから言うんだけど、私〇○なんだよね」

②ある程度信頼してカミングアウトしている人がいるから、別に言わなくてもいいけどついでに言う(困っていることがあまりない、間に合っている / 同じLGBTQ+の人に対してとか)
「あ、そういえば俺トランスなんだよね、それでさ(全然関係ない話)」

③窓口対応してほしいだけ(通称名使いたいだけで、人事部の人にシステム上お願いしているだけ)
「すみません、トランスジェンダーなんですけど、この性別欄にはなんて書いたらいいですか?」

④エンパワメントの一環でのカミングアト(講演会、悩んでいるLGBTQ+当事者、メディアなど)
「私は生まれた時に割り当てられた性は女性ですが、現在は男性として生活しているトランスジェンダー男性です」

私の場合、治療をしていないときは①が多かったけど、最近だとわざわざ言う必要もないし、たまに②④がある感じ。何が言いたいかというと、「LGBTQ+当事者は、いつも誰かに対して啓発するために存在しているのではなく、ただ身近に当たり前にいる”ただの存在”でしかない」ということだ。LGBTQ+で啓発活動をしている人しか見えていないだけで、実は当たり前に身近にいる。ただ、そのことに気づいていない人が「LGBTQ+の人が見えないから、もっと存在をアピールしてほしい」というのは、差別や偏見をされてこなかった側の人間が持つ特権だと思う。実は誰かの足を踏んでいるかもしれないのに、「(踏んでいるか気づかないから)踏まれたら言ってほしい」というのは、ちょっと違う。誰かの足を踏んでいないか、常に気配りをするのが、まずやるべきことではないだろうか。そして誰かの足を踏むということは、LGBTQ+に限らず起こっていることだと思う。

さいごに

随分と偉そうなことを言ったけど、実はこの言葉は、私自身に対しても言っている。私は、私以外の人の経験してきた苦しみやつらさを知らない。また、ある属性によって差別や偏見を受けてきた人のことも知らないし、一緒になって味わうこともできない。でも、そうした人たちがいつも必ずどこかにいると思って、常に発言に気をつけたり、少しでもどんな気持ちか想像するために勉強したり、パブリックで話している人のスピーチを聞いたりする。そんな地道な作業でしか、私は私以外の人の経験を知ることができないし、それを知らないと周囲に配慮ができない無知な人間だからだ。

そして、いつか、もし友人からカミングアウトされたら、自分なりに知識を総動員して、できるだけその人を傷つけないように言葉を丁寧に選びながら会話をする。「間違ったり嫌な思いをさせたらごめん、その時は絶対にすぐに言ってほしい」「パスもOK!」「あなたも私に聞きたいことがあったら何でも聞いて欲しい」と伝えた上で、できるだけ聞きたいことを聞く。

カミングアウトは、もしかしてあなたの日常の中で急に起こるかもしれない。でも、それはもしかして、あなたが相手にその話を「しようと思える気にさせた」のかもしれない。カミングアウトすべてに明確な理由があるわけじゃないけど、私は社会的な差別や偏見を受けるかもしれないリスクを負ってでも私にカミングアウトをしてくる友人がいたら嬉しいし、偽りや隠し事をしなくても友人が私と会話を楽しんでくれたら最高。そして、その人がもし困っていることがあれば力になりたい。いつか自分もそうしてもらったことを、他の人にもできる自分でありたいと思う。







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