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音と人生

母の病気と死と、それにまつわる音

⚠️死の表現が出てきます、苦手な方はご注意を

音に動かされて生きてきたと言っても過言ではない。
音楽ではなく、音。
もたらすものは楽しい嬉しい面白いなんていう明るい感情だけではないし、音楽/曲 なんて呼べるほど統率の取れたものではないこともある。
音。それは、目で見るよりも緩やかに、匂いを嗅ぐよりもぼんやりと、手で触れるよりも不安定に、味わうよりも分かりづらい。それでも確かに、私の心を動かして、様々な感情をいつも与えてきた。

人生って、色々ある。
たったの26年、日本という安心安全の国で、経済的困窮も家族からの愛情不足もなく、何不自由なくのうのうと生きてきた小娘の私にも、それなりに書き尽くせないほどのことが色々あった。楽しいことも、悲しいことも。
それでも1番考え悩まされた出来事は、大好きな母の病気と死だった。


20歳になって迎えた春、大学3年生。
それまで何事もなく平和に幸せに続いてきた我が家に、ある日それは青天の霹靂のように落ちてきた。
卵管癌ステージ3-C。
医者の不養生なんてよく言ったものだけど、まさにその通り。これまでずっと看護師として第一線で働いてきた母は、自分の変化に気づいていながらも後回しにしていたようで、周りに勧められて検査を受けた時には時既に遅かった。
5年生存率は30%前後、ほぼ7割の確率で5年後には母はこの世にはいないことが告げられた。
私は20歳、弟は16歳。父もまだ55歳になったばかりくらい、肝心の母はまだ40代後半だった。
え、嘘でしょ?なんか悪いことした?いや、母の愛にかまけて甘えていろんな手伝いしないままテキトーに遊んで過ごしてたけど。色んなことを全て母に任せてイージーだなあとか思いながら生きてたけど。大学生なんてみんなそんなもんじゃないの?てか、若すぎない?母が死ぬには、私も家族も、もちろん母も。
いつも聞いていた曲たちが空々しく思えて仕方なかった。
恋だの愛だの、今受け止めようとしている現実より優先されるものはない。
友人たちの無邪気な笑い声を聞くと羨ましくなった。
この中にこんな悲しみをわかってくれる人がどれほどいるだろう。きっとわかったフリでも、心底理解することはできまい。彼らの身には起きていない、他人の不幸だからね。


毎晩泣いた。というか毎日いつでも泣いた。バイト先のバックヤードで、毎日乗るバスや電車の中で、友達の前で、ベッドの中で。母には決して見せなかったけど、多分バレてた。母ちゃんってそういうの全部気づくよな。すげえわ。
それまでは自分の部屋のベッドで寝てたのに、その頃から母と父のベッドに侵入して、幼稚園児のように3人川の字でねるようになった。弟はさすがに恥ずかしいらしくて1人で寝てた。娘でよかった。ちびっこみたいなダダこねて両親の間に挟まって寝ても、まあ娘だしな、で終わるもんね。
母が介護用ベッドで寝ないとダメになるくらいまでずっと毎日そうした。暗闇の中、私は1人寝れなくて、隣で寝ている母の背中をずっと見続け、静かな寝息の音を聞いていたのを鮮明に覚えている。まるで、生きていることを確かめるように、全てを焼き付けていつまでも覚えていられるように。


3年と3ヶ月の闘病を戦い抜いた母は、照りつける太陽がジリジリとしんどい8月の終わりに亡くなった。私がその前日に泣きながら書いた手紙を受け取って満足したのか、私が職場から帰ってくる前に、最後に大きく息を吸って、そのままピタリと呼吸をやめたという。ほんの30秒、私は間に合わなかった。最後に大きく息を吸ったという事実が最後まで戦い抜いた諦めの悪い母らしくて、なんだか誇らしかったなあ、と思えるようになるまでかなり時間がかかった。
職場で父からの電話を受けていよいよか、と思った時には浜崎あゆみのMemorial addressと言う曲がよぎった。
その朝、予感というか、3年3ヶ月抱いてきた予想は、沈黙を破るように、本当に鳴り出した一本の電話で全てが現実になった。


その後のことは朧げにしか覚えていない。
地域の中核病院の看護副部長だった母は、友人や職場の同僚など多くの人に慕われ、コロナ禍とは思えないほどの人が葬儀に参列した。葬儀社の人にも、「こんなに参列者の多いお葬式は近年あまり見ない」なんて言われた。
小柄な体格とは裏腹に海のように深くて広い愛で人々に接してきた結果である母の大きな人望を目の当たりにして、
娘のなんと不出来であることか、申し訳ない、なんて思った。当の本人はきっと、お供え物のあんこでも食べて苦しみから解放されたことを喜んでいただろう。呑気だ。
というか、あっちでそれくらい呑気でいてくれないとこっちがやってられない。全く、こんなにも早く置いていきやがって。
告別式のとき、タイミングよく米津玄師のLemonが流れた。アンナチュラル、ママと見たっけ。大好きだったなあ。
きっともうこれ以上、傷つくことなどありはしないとわかっている。この一節のメロディが耳にこびりついていまだに離れない。
おまけに夏の終わりのセミの鳴き声も、火葬場での父の「ルミちゃん!ありがとう!さようなら!」という叫びも、わたしの泣き崩れる音も。



こんなことを書き始めたのは、
あの音に、あの頃の音に、
私が今も動かされているからである。
音がもたらすのは喜びだけじゃない、と初めて知った。
だけどその頃、母を思って聞いたいくつもの曲、母の最期と結びついたいくつもの音によって、私は今も悲しみや寂しさを、それを覆い尽くさんばかりの母の愛や笑顔や笑い声、楽しい思い出を鮮明に思い出せる。


人は何かを忘れたりはしない、思い出せないだけで。

そんな銭婆の名言をかき消して、
鮮やかな心の痛みによって溢れる涙を止められない今の私が、まだ母に胸を張って再会できるような者ではないことはわかっている。川を渡るにはまだ未熟すぎる。
だけど、音と共にある様々な感情を抱えて、不器用に、でも母を思い出しながら息をし続ける私に、
いつか胸を張って母と会える日が来ますように。
まあそれは自分次第だと思うけど、
今はただ懸命に息をし続けることを誓うために。

ママ、私まだ生きてるよ。いつか会いにいきます。と
今日も音を乗せて、自分の声で毎日を紡いでいる。

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