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わたしたちは「何者か」になれるのか?〜Day3 個の尊重〜

あたらしい学習指導要領が掲げる「主体的・対話的で深い学び」。

前回は、「学びの主体性」に着目して、「やらされ感」からの脱却についての、当教室の取り組みをご紹介させて頂きつつ、その難しさをお示ししたところでした。

今回は、学びの主体性を支える「個の尊重」について思うところを書きたいと思います。

みんなちがって、みんな…?

見出しはもちろん、金子みすゞさんの「わたしと小鳥と鈴と」の有名な一節です。

誰しも、できることとできないことがあるけど、それがその人やその存在なのだから、ありのままでいい、という内容ですね。

他方、実際わたしたちの暮らしについて考えてみると、自己と他者との線引きがあいまいになりがちではないでしょうか。

たとえば、
「私がこれだけ努力したのに、相手は全く自分のことを考えてくれない」
だとか、

「〇〇が△△したから、私はこうしたのに」
だとか。

いずれも、相手を自己と同一視しようとする心理が働いているように思えませんか。

前者は、自分の価値基準に相手をはめこんでしまい、後者は、自分の価値基準を他人のよく見える部分に委ねてしまう。そういう場面のすべてを否定するわけではないのですが、ほどほどにしておきたいものですね。

程度が行きすぎると、「みんな違ったら、みんなダメ」という価値観に、一気に偏ってしまう危険性があるのです。それも我々が思っている以上に、いとも容易く。

理想を言えば

少なくとも、自分がどういう人間なのか、ということを、「人に違うようにみられるかもしれないけど」ということも含めて、理解することが大切になるでしょう。

それがあれば、どんなに違う価値観の人と出会ったにしても、認め合うことができるようになるでしょうし、あとはそれをどの程度自分として活かすかということになるでしょう。

また、「人に違うように見られるかもしれないけど」という部分で、自己評価に幅を持たせておくことも重要になるでしょう。

他の誰かから見た自分と、自分自身との見方とは、いつも必ずしも一致するとは限りませんよね。その違いに気づいた時に、誰かに影響されっぱなしでもなく、かといって「私はこうだからわかって!」とゴリ押しするでもなく、

なるほど、自分ではこう思っていましたが、あなたはそう思われたのですね

などといった、中立的な視点を、自分でも持てるようになれればいいですよね。

顔色を伺いやすい私の場合

何を隠そう、私自身、もともと自己と他者の線引きが曖昧な時間が長く続いていた人間でした。お恥ずかしながら。

そして、なぜ自分がうまくいかない人生が長く続いたのかを、今になって振り返ると、自分の判断を他人の顔色や言動を伺いすぎていた、ということに気づいたのでした。

精神的に息が詰まることが多かったので、どうしたら気楽に生きられるか?という思いで、心理に関する本を読み漁りました。そして出会ったのが、加藤諦三さんの「気が軽くなる生き方 もう“いい人“にこだわるのはやめよう」という本でした。

そこでは、しきりに、幼少期からの親子の関わりと、そこに気づいた自分は親とどう向き合うなり、親のことをどう位置付けるか?という内容が書かれています。

そして、条件付きの愛情や、ダブルバインド(どっちに転んでも同じ答えになる選択肢だけを用意しながら、相手をコントロールする方法。二重拘束ともいう)など、子どもの精神面での健全育成を阻む要因について書かれています。

耳の痛い話かもしれませんが…

たとえば、自分と違う意見を言った子どもが、核心を突くようなことだったりすると、親としては「反抗された」と思ってしまうかもしれません。そして「反抗するんだね。だれのおかげでご飯が食べられていると思うの?」なんて言われてしまえば、子どもは自分で意見を言うことができなくなります。

また、「好きにすれば」などと子供に言って、実は「こうしてほしい」ということを素直に言えないなんてことは、ありませんか。そして、自分の望む結果を、子どもが出せなかったときに、ダメ出しをするんですよね。「そう言う意味で好きにすればって言ったわけではない」と。では、どう言う意味で好きにすれば?と言ったのでしょうね。

まだ広い世界を知っているわけでもなく、その広い世界のことを教えてくれたり、あるいは一緒に体験してくれたりするわけでもない家庭であれば、親の存在は、親たちが想像している以上に、子供にとっては大きな存在なのです。自分の生命、生活を左右されるかもしれないという恐怖を、無意識のうちに感じてしまうのです。

そういうように、必要以上に他人の目を気にするようになってしまった私。誰かの意向の中で生きることを刷り込まれてしまったのです。そしてそのことに、はリアルタイムでは無意識であることが、往々にして多いのです。

その人にしかわからないものごと

今では、私が転んでもただで起きない人間だと信じて、母が素直に言えなかったことを私に変化球で投げまくってきたのかな、と思える程度には、自分を持つことができるようになったと思います。

でも、そういうようになれたのは、やはり自分自身と徹底的に、愚直に向き合い続けたからなのだと、今になって思います。そして、多くの方に支えられながらも、そういった方々にも色々な人生があり、目に見えない苦悩があって…ということも、たくさん見させていただいたことも大きかったように思います。

そして、今の仕事に活かしているのは、

・親子であろうが、家族であろうが、親友・恋人であろうが
・それぞれの個性に基づき、ひとつとして同じにはならない人生を生きるから
・「その人にしかわからないこと」が必ずある。

ということです。

つまり、どれだけ自と他の境界線を曖昧にしようとしても、どれだけ誰かに取り入れてもらおうとしても、完全一致は物理的にも不可能だということを、理解しておくだけでも良いのではないでしょうか?ということです。

そして、「個の尊重」とは、
その人にしかわからないこと」を、いったんは「そうなんだ」と聞き入れつつ、それに対して自分の考えと比較してみることだと思います。

むろん、自分自身を自分自身が尊重できていないとならないので、「どの程度相手の考えや意見を取り入れるか」を判断しなければなりません。

あとがき〜後日談〜

母が私に理屈で追い詰められたときにこぼしていた「あんたにはわからない」という言葉の意味を理解した私でした。誤解を生むような言い方さえしなければ、ある意味真理は突いていたんですけどね。そして、私もそれを変換できるほどの精神的な器量はなかったわけですね。

そして、自分がどうやってその器量をつけていったのか、ということについては、また別の機会に譲りたいと思います。

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