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#11 火焔型土器と向きあう

照明の落された部屋でスポットライトを浴びて浮かびあがるナンバー1とよばれる火焔型土器(指定番号1)と静かに向きあう。
 
十日町市の笹山遺跡で出土したこのナンバー1を筆頭にした深鉢形土器57点のほか石器・石製品類などを含む総数928点は1999年、国宝に指定された。新潟県唯一の国宝であり、縄文土器としては全国唯一の国宝でもある。十日町市博物館では、そんな貴重な火焔型土器をいつでも見ることができる。

火焔型土器指定番号1

僕らが日々踏みしめている大地の下に、そんなお宝が眠っているなんて想像するだけでもワクワクする。ナンバー1がその眠りから覚め出土されたのは、いくつかの偶然が重なったからだという。発掘の瞬間に立ち会った十日町市教育長の渡辺正範さんに話を聞いた。

笹山遺跡を渡辺さんと歩く

渡辺さんは1982年、野球場建設に伴う笹山遺跡の発掘調査に携わった。渡辺さんが担当していたエリアは面積こそ小さかったものの、次から次へと遺物が出た。おかげで作業は遅れていたが、工期の7月8日までに調査を終えるよう厳命されていた。渡辺さんらは必死に掘りつづけ、7月7日にようやく遺物包含層を抜け、「もうこれ以上掘る必要はない」とされている層まで掘り進んだ。残すは翌日の撤収作業のみとなった。
 
七夕の夜、雨雲が星空を遮り、大地を濡らした。
 
翌8日、雨で土の色が少し変わっている場所に気づいた。もう少し掘るか?掘らずに撤収するか?相談した結果、掘る班と撤収班の二手に分かれた。
 
「渡辺さん、まわったよぉ〜」
午後の作業を始めてすぐ、ベテランの作業員に呼ばれた。そこには、土の中で真円を描く土器が埋まっていた。「まわったよぉ〜」とは、土器(の断面)が途切れることなく円を描いて発見されたことを言うのだそうだ。

出土状況を再現したモニュメントの前で発見当時のことを話してくれた渡辺さん

「そのときは、本当にやばいと思いましたよ。今風な『すごい』などではなく、本当の意味でやばい、と」。ひと目で、ナンバー1は他の遺物とは違うことに気づいたという。
 
七夕の夜に雨が降ったから。工期の最終日に「もう少し掘る」という決断をしたから。そんないくつかの事柄が重なってナンバー1と呼ばれる火焔型土器は出土され、僕の目の前にある。

芸術家の岡本太郎氏は火焔型土器を単なる歴史的な遺物から芸術作品へと昇華させた

火焔型土器はその名の通り燃え上がる炎のようにも見えるし、細部に目をやるとダイナミックな水の流れを感じることもできる。目を閉じて、もう一度眺めると、今度は躍動する動物のようにも見えてくる。
 
「縄文時代を生きた人々はいったい、この土器に何を投影したのだろう」
 
色々と思いを巡らせていると、時間はあっという間に過ぎてゆく。僕はこうして土器などを前にあれこれ妄想するのが好きなのだ。
 
考古学の楽しみ方には3つあると思う。1つは遺跡からの出土品そのものを愛でる。圧倒的な存在感を持つ火焔型土器は、それ自体が静かに僕らに語りかけてくる。2つ目は、その時々の最新のテクノロジーを使って科学的に解明された事柄を学ぶこと。3つ目は、1と2を基に、そして1と2では分からない部分を考察で埋めていくことだ。僕にだって、縄文人になったつもりで色々と空想できる余白のようなものが考古学にはある。

縁のギザギザは波、その下は渦をまく水の流れに見えてくる

僕はちゃんと縄文妄想を楽しみたくて、十日町市博物館の 学芸員・笠井洋祐さんに話を聞いた(何の知識もないと、僕の妄想する縄文人は半裸で毛皮を着て骨つき肉を頬張る人になってしまうので)。

火焔型土器は今から5000年ほど前に500年ほど続いた縄文時代中期に作られたものだ。「勘違いされている方も多いのですが、火焔型土器は10000年も続いた縄文時代のこの時期にほぼ新潟県だけで作られている土器なんですよ」と笠井さん。
 
当時の暮らしぶりはどんなものだったのだろうか?
 
笠井さんによると、縄文中期はすでに今と同じくらいの降雪量があったのだそうだ。そして、信濃川は今よりも水量が多く、サケ・マスなども沢山獲れていたとのこと。遺跡からは貯蔵庫のような場所も見つかっているらしい。
 
火焔型土器にも、内側に焦げや煮こぼれの跡などが残っていて、科学的な解析をしたところ、魚などの動物性タンパク質が検出されたという。ただ、焦げの量から、火焔型土器は日常の煮炊きに使われたものではなく、特別な祭事で使われたのではないかと推察されている。縄文人は夏至や冬至も認識していたそうで、豊かな精神文化が存在していたことがうかがえる。
 
さらに笠井さんの話でビックリしたのは、縄文人はすでに現代の私たちが使う食器類とほぼ同じようなものを使っていたというものだ。確かに博物館には、注ぎ口のある急須のような注口土器や、有孔鍔付土器というものが展示されている。有効鍔付き土器は、土器上部の縁に小さな穴が開けられていて、そこに毛皮を張って太鼓に使っていたのではないかとか、お酒を作っていたのではないかとか言われている。

注口土器。何を注いだんだろう?
有孔鍔付土器。縁に小さな穴が空いている
「使い勝手がよさそうな器だな」など、つい現代の物差しで眺めてしまう。

ならば、有孔鍔付土器で酒を作り、注口土器で晩酌を!なんて想像が膨らんでしまう。「豊かな暮らしだったんでしょうね」と僕が言うと、「でも、それは決して現代の感覚で豊かなのではなく、食糧的には生きていくためのギリギリのラインだったと思いますよ」と笠井さん。
 
それでも、縄文人は魚を獲るにしても大きな魚だけを獲り、小さな魚は逃していたのではないかという(遺跡から大きな魚の骨しか見つからないため)。木の実などもしっかり管理していていたようだとも。土器も割れたものを天然のアスファルトを接着剤にして補修するなど、ものを大切に使っていた痕跡も見つかっている。今風な言い方をすれば、縄文人もSDG’s的な暮らしをしていたのだ。
 
やはり心は豊かだったのではないか。笠井さんの言葉が僕の妄想にしっかりと血肉をつけてくれた。
 

後ろに見える鉄橋の建て替え工事に伴い、試掘が行われていた


そんな笠井さんの姿が10月下旬、中里地域の圃場脇にあった。鉄塔の建て替えに伴う、建設予定地の試掘に立ち会うためだ。
 
発掘調査歴20年以上の女性が言う。
「学芸員の方が『ここを掘って』という場所からは本当に何かが見つかるんですよ」。
「これはもう、縄文人との探り合いですよ」と笑う笠井さん。
 
そんな眼力を使ってもっともっと、市内に眠っている遺跡を発掘してください!と僕が言うと、意外な答えが返ってきた。

地表から丹念に調査する

「発掘調査というのは壊していることなんです。私たちは遺跡を壊しながら、情報を得ていることになります。ある程度状況が分かっているところは後世に残したほうがいいんです。後世に残すことも重要な使命。文化財は守ることが第一。保存して残すことです」。
 
僕は歴史を研究する学芸員が過去だけではなく未来にも大きなビジョンを持っていることに驚いた。確かに、現在の最新技術はいずれ古くなり、近い将来、掘らずに全てを解明できる技術が生まれる可能性だってあるのだから。
 
みなさんも火焔型土器と向き合いながら、あれこれ妄想してみませんか?
 

笠井さんおすすめの縄文時代草創期(約16000~11500年前)の土器片も展示されている

『究極の雪国とおかまち ―真説!豪雪地ものがたりー』 世界有数の豪雪地として知られる十日町市。ここには豪雪に育まれた「着もの・食べもの・建もの・まつり・美」のものがたりが揃っている。人々は雪と闘いながらもその恵みを活かして暮らし、雪の中に楽しみさえも見出してこの地に住み継いできた。ここは真の豪雪地ものがたりを体感できる究極の雪国である。
 
 

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